遠くから鐘が鳴り響く。くぐもったその音は晩秋の空気を揺らしシャルルの頬を撫でた。
シャルルはヴィンスを起こさないように静かに、ゆっくりとベッドから降りた。窓の外はセピア色だった。薄い雲が、月の周りを覆っていて、ぼんやりと光を和らげている。窓ガラス越しにシャルルは外をじっとみていた。ざわめきが、窓を越えてシャルルの耳へと届く。
—— 星天の声、かな……?
低く唸るような音。不思議と怖くはなかったが、足元がとても冷たく感じた。靴下を履いていなかったことに気がついて、シャルルは一度ベッドサイドへと戻った。スツールに置いてある明日着る予定の服の一番上に置いてある靴下を履いて、いつも履いている靴に足を滑り込ませる。ヴィンスの方を見ると、ぐっすり眠っているようで、寝息しか聞こえない。
シャルルは再び窓辺へと足を向けた。相変わらず、ざわめきが大きくて眠れる気がしないのだ。外に出るのは寒いだろうかと思ったが、マントを羽織れば大丈夫だし、月明かりがあればあたりはよく見えるし、怖くはないと思った。
—— 予報を見ておこうかな
以前、ヴィンスとウィルと図書館で調べたことのように、星々の状況と星天の声は関連しているかもしれないと思って、シャルルはヴィンスのデスクに置かれている新聞紙に手を伸ばした。卓上時計を見るともう日が変わっているから、新聞は昨日のものということだ。気象・天体予報の欄はインクが掠れて暗い部屋の中ではよく見えなかった。灯りをつけるとヴィンスを起こしてしまうかもしれないと思って、シャルルは諦めて新聞を元の場所に置いた。
—— ちょっとだけ、空を見たい
課題は出ていないし、薄曇りで綺麗に星が見れるわけではないが、シャルルはなんとなく月を見たいと思った。マントを手に取り、鍵も忘れずに持って、そうっと部屋を出た。
寮の屋上へと階段を登っていく。他に寝ている生徒たちを起こさないように慎重に、ゆっくりと足を運ばせる。屋上の扉の蝶番は少し錆びているから軋んだ音を立てたけれど、そんなに大きな音ではなかったから、誰も気にならないはずだ。ドアを開けると不思議とそこまで寒くはなかった。きっとマントをしっかり羽織っているからだろう。
—— こんな夜更けなのに、明るいなぁ
シャルルは寮の屋上から学園の方を見た。大きな城のような、要塞のような学園の校舎は静まり返って重たい岩のように佇んでいる。校舎のさらに向こうは白樺の森だ。入ってはいけないと言われているその場所には、いろんな物語があるとヴィンスがいつか話していた。学園のあるニウェース聖区は神話で成り立つ場所だ、と。白樺の森は遠くの星々のようにちかちかと光を反射しているようだった。
—— いや、あれは森が光ってるんじゃない
シャルルは目を凝らした。光の筋が森の奥へと向かっているようだ。校舎の影になっていてよく見えないけれど、まるで餌を見つけた蟻が行列をなしているような、光の粒で成り立つ道筋。
《シャルル》
誰かの声が名前を呼んでくる。周囲を見回すも、淡い月光に照らされたセピア色の風景のみ。繰り返しシャルルの名を呼んでくる。
—— 誰? どこにいるの?
《辿って》
シャルルはこの声をいつか聞いたことがあった。優しい、懐かしい声色。父のような、母のような。
—— そうだ、あの日も……
声の主を探してシャルルは屋上の手すりを掴んで身を乗り出していた。びゅうと風が吹いて月を淡く覆った雲を蹴散らす。シャルルの蜂蜜色の髪を乱れさせ、思わず彼は目を瞑った。鈍い音がして、シャルルは寮の屋上から真っ逆さまに。
「シャルル!」
聞き慣れた声がシャルルの肩を揺すった。目を開けると心配そうなヴィンスの顔と、薄暗い部屋の天井。
「……あれ?」
先ほどまで屋上にいたと思った自分の体はベッドにちゃんと横たわっている。
「すごくうなされてた。起こしてあげた方がいいかと思って。大丈夫か?」
「う、うん……」
シャルルは思わず自分の額に手をやる。薄っすらと汗をかいているようだ。ヴィンスが不安げな目を向けてくるので、シャルルは体を起こし、大丈夫だと念を押す。
「怖い夢?」
「……そうでもないかも。いま、何時?」
「四時だ。不意に起きたら君が何か唸ってたから、悪夢でも見ているのかと思ったんだ」
ヴィンスがカーテンを開ける。外はまだ暗く、陽は上っていないようだ。シャルルはふいに窓の外を飛んでいく花びらのようなものを視線に捉えた。
「今何か見えなかった?」
「いや、何も……」
シャルルは急いでベッドから降りて、窓辺へと向かう。
「蝶々かな……あれ?」
ふわふわしたものがいくつか外を舞っている。明らかに雪ではない色の別なものが見えている。
「蝶? こんな寒い時期にいるはずはないけど」
ヴィンスが首を捻るが、シャルルが指差した方向を見ると、「ほんとだ」と窓に額をくっつけるように覗き込む。シャルルは目を擦ってもう一度外を見た。確かに蝶ほどの大きさの何かが窓の外を浮遊している。よくよく見ると、何かのかけらのような、薄い布のようなものが点々と外に連なっている。シャルルは先ほどの夢の中の光景を思い起こして思わず呟く。
「森に向かってる?」
「え?」
「さっきの夢で同じようなものを見たんだ」
ヴィンスの方を向いて続ける。
「『辿って』って言われた」
シャルルの目をまっすぐ見るヴィンスは、もう一度外を見て、考え込むように目を閉じるとゆっくりと口を開く。
「星天の声みたいだった?」
「……! そう!」
シャルルは何かに似ていると思ったが、夢の中でぼんやりとしていたのか思い出せなかったのだ。
「なら、従うべきだ」
ヴィンスは強い口調で言い切る。シャルルは数回目を瞬かせた。
「あれを追いかけるの?」
「ああ、でも僕たちだけで動くのは良くないな」
「じゃあ、先生に言う? 止められる気がするんだけど……」
二人は顔を見合わせて、数秒悩んだ末に声を揃えてこう言った。
「ウィルだ」
例の通信装置でシャルルとヴィンスに呼び出されたウィルは、小さな鳥型のおもちゃを手元でいじりながらステルクス寮とクラシセント寮の間の待ち合わせ場所へとやってきた。
「びっくりした。こんな朝方に何かあったのかと思ったよ」
「呼びつけてごめんね」
寒さに震えているシャルルに気がついて、肩を組むようにウィルが寄り添う。そのまま手渡される鳥型のおもちゃをよく見ると、小さなころ子供達の間でかくれんぼの一大ブームを巻き起こした認識阻害装置であった。子供騙しの認識阻害機能しかないため、学園にあるらしい高性能な監視機器には通用しない。シャルルはスイッチを見つけたが壊したら悪いと思い、押すのをやめてウィルに尋ねる。
「これ、使えるの?」
「実は改造品。めっちゃ効くよ。時間制限付きだけど」
「本当か?」
ヴィンスが呆れ顔でウィルを見やるが、一切の悪気もなくシャルルの手を温めている。
「ちょこっと抜け出したいときに便利なんだよ。……で、何も見えないけど」
「ここにいるんだ、蝶みたいなものが」
ヴィンスが指で浮遊している薄片をさし示すが、ウィルは眉根を寄せて首をひねる。
「光ってるよ」
シャルルは目線で道筋を伝えるが、ウィルにはさっぱりなようで、反対方向に首を捻るのみ。
「俺だけ見えないのかよ〜……」
手をブンブンと振りながらせめて触ろうとしているようだが、シャルルたちに見えているものは幽霊のようにウィルの手を通り抜ける。
「ま、どのみち俺はついてくよ。何かあるかもしれないし」
君たちを守らないといけないからね、と腕を組んでふんぞり返って付け加えるウィルに、シャルルとヴィンスは破顔した。
評議会の集まりで知らされていた公安の監視員が立っているところをうまく避けつつ、三人は木々の影に隠れながら進んでいく。ウィルが持ってきたおもちゃの認識阻害装置が気休めにながらも役立っていた。
森の入り口まで来たとき、ピピ、とシャルルの手の中で認識阻害装置が制限時間を告げた。ウィルがそれを取り、軽く振って再びスイッチを押すと「三〇秒」のカウントダウンが始まる。
「これ、入っちゃダメだよね……?」
シャルルは森の奥に続いていく光る蝶の行列を眺めて呟いた。学園の北の白樺の森は禁じられた場所だ。転校してきた初日に学園長がそう言って注意していたことをシャルルはもちろん覚えていたが、そんなことはあまり気にしたそぶりもなくウィルは足を進める。
「こっちであってる?」
「あまり深くまで行かないようにしないと」
ヴィンスもウィルの進む方向を修正しながら進んでいく。シャルルは後ろを注意しながら二人から逸れないように着いていく。
「そういえば、学園の北の森には人喰い梟がいるって噂あったな〜」
「眉唾ものだったはずだが?」
ウィルとヴィンスが交わす怖い話にシャルルの背筋がぶるりと震える。森の入り口からそう離れていないところで「侵入禁止」の立て看板が会ったため、さすがに三人は足を止めた。
「シャルル、あっちの方の蝶、黒くなってないか?」
ヴィンスが森の奥へと向かう蝶たちを指さしてシャルルに尋ねる。よくよく目を凝らすと、確かにグラデーションのように白く光る蝶は灰のような、暗い色になって森の暗闇へとけていくようだ。
「……ほんとだ」
そう言ったとほぼ同時に、どこかで枯れ葉を踏みつける音がしてシャルルは耳をそばだてる。森にいる動物か、はたまた見回りの職員か。
「勝手に抜け出したのか?」
三人揃って飛び上がり、声がする方を振り向くと、いつか学園寺院で会った少女だった。目深に被ったフードを軽く持ち上げて少女は空を見上げると、シャルルたちに向きなおり顎でしゃくって森の外を示す。
「今すぐ寮に帰った方がいい。早起きの職員が来るよ」
「君は……?」
「私は特別なのさ」
シャルルの問いに答えて肩をすくめると、少女は星屑のようなものを残し霧のように消えた。ふと視線を上げると先ほど少女が警告した通り、空が白んできていることに気がつく。
「あんな小さな子が転移魔法を?」
ウィルがつぶやいて、少女がいなくなった場所を念入りに調べていたヴィンスが頷いた。
「ほんとに早く帰らないと、朝が来る」
何事もなかったかのように寮に戻った三人は、再び評議会として招集されたのがその日の昼休み。寝不足の目をこすりながら大広間へやってきたシャルルとヴィンスは、扉を開けようとしたところで急に腕を引っ張られて目を丸くする。抗議の声を上げようとしたヴィンスに、腕を引っ張った張本人は慌てて口に手を当てる。
「しーっ、やばいよ二人とも」
「ウィル? どうしたの……?」
もしかして、朝方の行動が先生にバレてしまったかと思ってシャルルはヒヤヒヤしながらウィルの言葉を待つ。
「森の奥で失踪していた生徒が見つかったって。今朝二人がみたのが関係してるんじゃ無いかって思って」
声を落としてウィルがそういうと顔を上げて他の生徒が聞き耳を立てていないか確認する。シャルルも来た道を振り返ると、他の評議員たちが話しながらやってきたのが見えて、ヴィンスとウィルの背中を押す。
「とりあえず広間に入ろう」
三人が入ってきたのを見ても特に他の生徒たちは何も言わず、すぐに元の話題へ戻っていく。ウィルは普通の声量に戻して話を続けた。シャルルは隣で涼しい顔をしているヴィンスを真似て、平静を装おうと努めた。
「公安の職員が森の奥で数時間前に見つけたらしくて、失踪していた生徒はみんな気が狂ったみたいに何かぶつぶつ言ってたらしくって、全員病院送り。しかも、みんなこの前のテストの上位者だったんだって、さっき五年の先輩が言ってた」
ウィルが気味悪げに顔を顰めて伝えると、シャルルとヴィンスは顔を見合わせる。
その後やってきた監督生たちが矢継ぎ早に評議会に事件の解決を伝えた。ウィルが聞いてきたように、公安の職員が学園から頼まれて生徒の侵入禁止区域の見回りをしていたそうだが、失踪していた生徒たちが一塊になって座り込んでいたらしい。皆一様に目が虚で、手には同じようなアクセサリーを持っていたそうだ。
「前に、生徒が亡くなった事件があったけど、あの時も蝶じゃなかったか?」
評議会が解散してから、シャルルたち三人は肩を並べて図書館へ向かう途中にヴィンスがふと思い出したように言う。特に何の理由もなかったが、三人が一緒に行動しているのに変に見られないように適当に決めた地点が図書館だったのだ。
「黒い蝶だった。今朝見たのは光ってる蝶……でも、あの時みたいな気持ち悪い感じはなかったよ」
シャルルも記憶を辿りながら答える。ウィルは二人の話を真ん中で腕を組んで首を傾げる。
「黒い蝶は俺も見たけど、光ってるやつは見えなかった。これの違いってなんだ?」
「能力の違いじゃないか?」
ヴィンスの返答にシャルルは今日の夢が気になった。
「今日、僕が見た夢が星天の声だとして、じゃあ、どうして僕たちに森の奥に行かせたんだろう?」
「犯人探しを俺たちにさせたかったとか? にしても変なやり方だよな。この前、二人が聞こえた声もよくわかんないし」
ウィルが唸りながら推測を口にするも、シャルルにも同じような考えしか思い浮かばない。ヴィンスを見やると少し後ろで立ち止まっていた。
「ヴィンス?」
シャルルに声をかけられて顔を上げるヴィンスは、「これは仮説でしかないけど」と前置きをして二人に駆け寄り、声を落としていう。
「星天の声が聞こえる時と事件が関連しているとしたら、この裏にいるのはやっぱり、魔物なのかもしれない。だとしたら、僕らがこれ以上踏み込めることなのか?」
◆
十一月二十九日、ラナクス研究院附属学園の生徒二名が違法魔術道具所持罪により逮捕された。学園はこの一件について事態を重く受け止め、今後の再発防止に努めると同日午後の記者会見で告げた。逮捕された二名の生徒は学園を退学となり、王都内の更生施設へと送られた。
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「……交通情報です。本日未明、ニウェース聖区から王都ロゼアへ向かう国道二号線で交通事故が発生しました。両車線ともに通行止めとなっております。復旧の目処は立っておりません。国道四号線を通る迂回ルートまたは列車および公共テレポーターをお使いください」
◆
「あーあ、失敗した。俺たち、アッチに行くしかないかな。マスターが、戻ってきても匿ってやれないって」
二人の少年が手を繋いで歩いている。背の低い少年は今にも泣きそうになりながら足元の小石を蹴飛ばした。
「魔力が取られないんなら、まだマシだろ。向こうなら差別されることもないって言うし」
背の高い方の少年は眼帯をひきちぎって道端へ放り投げる。枯れ葉の乾いた音がした。
「でもさ、ダンにーさん。通り道、ちゃんと行けなかったら?」
弟が顔を上げて心配そうな片目を向ける。もう片方の目は潰れて見えない。
「その時は……その時だなぁ」
二人の少年は、霧の中へと消えていった。
