【冬】さかさまの鍵盤

Gleams dimly ― so the moon shone there,
And it yellow’d the strings of thy tangled hair

― Percy Bysshe Shelley

 初めてその花の存在を知ったのは、もう全て散ってしまった後でした。楡の木の枝から落ちる水滴が、先生の外套を闇のように色濃くしていくのをただ眺めているしか私にはできることはないと、随分前から知っていたはずなのです。
 都会の音楽学校へ出るために、私は南雲先生という著名な作曲家の下で音楽を教わっていました。柔らかに波打つ西洋人形のように光に透ける髪を耳にかけた先生は、私が教室の扉を三度叩くまで、名も知らぬ曲を毎日弾いていました。音色は神に捧げるかのようで、先生の西洋風の家の中に響いて、教会で聴いたクワイアと重なりました。通い始めてすぐの頃に気になって尋ねたものの、曲名は教えてくださいませんでした。「試作品だよ」と言ったきりで、それ以上は何もないという風に肩を竦めるのです。
 その曲の楽譜に新しく書き込みをしている様子もなく、また、先生は暗譜しているようで、私が先生の元へ通っている間、全くメロディの変わったところもありませんでした。完成しているけれど、まだ発表していない曲なのだわ。そう思い、私だけが先生の大切な曲を聴いていられると言うことが、何より嬉しく、辛い受験のための勉強も、優しい音色を聴くたびに頑張ろうと思えたのです。
 この町に雪が降り始めようとする頃、第一志望の音楽学校から合格通知を受け取りました。もう遅いから明日にしなさいと言う母の声を聞き流し、私は上着を羽織って、「合格」という二文字が書かれた薄い一枚の紙をいつも使っていた教則本の間に挟み、それを放り込んだ鞄を掴んで外へ出ました。夕方降っていた雨はもう上がっていて、雨に濡れた石畳を転ばないようにと急ぎました。走っていないのに、喉のあたりに熱を持つような心持ちで、冷たい風が当たっているのに、全く寒くは感じませんでした。気持ちだけが先へ先へと走っていき、私の足は追いついてくれませんでした。早く、先生に伝えたい。そうひとりごち、先生の名をつぶやく自分の頬が赤くなるのを理解しました。
 私が先生のところに通い始めるより以前はたくさん生徒がいたそうで、ここ数年めっきり生徒を取らなくなっていたというのは近所の人たちの間ではもっぱら噂となっていました。
「君で本当に最後になるかなあ」
「無理言ってすみません。ですが、音楽学校に行くために対策をしてくださるのは南雲先生しか頼めませんので……」
「ああ、いいんだ、怒ってるわけじゃない」
 先生はいくつか楽譜を取り出して私の前に山積みにしました。口角をクイッと上げると、いたずら好きの子供のように笑ったのです。
「ずいぶんと久しぶりだから、私も教え方を思い出さないといけないな、ってね。楽しくやろう」
 本当は、もうあの日から私は先生に恋していたのだと、今となってわかります。同性の憧れもあったかもしれません。しかし間違いなく私の心を温めたのは好きだという気持ちだったのです。
 先生の家の前に着き、カーテンの向こうに明かりがついていることを認めると、綺麗に整えられた庭を通り抜けて玄関の戸を叩きました。
「ごめんください、萩野です。遅くにすみません」
「佳苗ちゃん? すぐ行くよ」
 言葉通りに程なくして扉を開け、先生が顔を見せました。琥珀色の髪の毛が少しもつれていたのがすこし気になったのですが、それよりも、舞い上がるようなこの気持ちを知らせるのが先です。
「先生、合格、しました」
「そうだろうと思った。おめでとう、頑張った成果が出てよかったね」
 先生は目を細めると、私の頭にそっと手を乗せて、お疲れ様、と言ってくださいました。骨張った手が触れるところから、先生のあたたかさが頬まで伝わってくるようで、私は何も言えずに頷くことしかできませんでした。
「寒いだろう。中に入りなさい」
「ありがとうございます」
 先生の後をついて、ピアノが置いてある練習室とは別の、暖かくされた部屋へと入りました。先生が一人で過ごすには少し広いお家だとは前々から思っていましたが、他に家族の方はやはり住んではいないようです。暖炉に火が灯り、パチパチと木のはぜる音がしていました。
「お茶を入れよう。紅茶は飲めるね?」
「はい。でも、お気遣いなさらないでください」
「いいさ。ちょうど私も飲みたかったところだ。相手をしてくれよ。あ、砂糖は? 私は何も入れないが君には苦いかもしれない」
「いえ、私もそのままで大丈夫です」
「そうか。じゃあ好きなところにでも座ってて」
 先生に言われ、少し部屋を見渡した私は丸いテーブルの近くに並んだ二脚の椅子を見つけ、その片方に腰掛けました。すると、足元にするりと何かが寄ってきて、ミイ、となんとも可愛らしい声をかけてきました。テーブルの下を覗くと、真っ黒の猫が綺麗な緑色の目を私に向けて、ゴロゴロと喉を鳴らしていました。
「あら、先生の家族はこんなところにいたのね」
 黒猫は軽やかに私の膝へ飛び乗り丸まって目を閉じました。そのしっとりとして柔らかな猫の毛を手のひらに感じ、そっと撫でながら、私はテーブルの上に無造作に置かれたままの楽譜をじっと見ていました。
 先生の筆跡で書かれたイタリア語の奏法指示。そして、この楽譜を使ったと思われる他の人の丁寧な日本語の文字列。「天使のステンドグラス」「はじまりの演奏会」「揃いの背広と革靴」などという言葉が書きつけられており、それが何を意味するのかわかりませんでしたが、並んだ音符を見ると、この曲がいつも先生が弾いていたあの曲だと言うことがすぐに気付きました。きちんと楽譜を見せてもらったことがなかったので、私は夢中で読んでいました。
「お待たせ、お茶淹れたよ……ああ、ノワールが来たのか」
 次の項へと移ろうと、猫を撫でる手を止めたところで、先生が戻ってきました。私と膝の上で寝ている猫を交互に愉快そうに見て言いました。
「ありがとうございます。とてもいい子ですね」
「そうだろう、君にも懐いてるようで嬉しいな。さ、冷めないうちに飲もう。今日は久しぶりにクッキーも焼いたからよければ」
 テーブルの空いたところにトレイを置いて、湯気の立つカップを差し出してくれました。
「片付けるのを忘れてた。すまないね。邪魔だろう、仕舞うよ」
「あの、それもう少し読ませてくれませんか」
 先生が楽譜を退けようとするのを慌てて止めました。先生は眉を下げて笑うと、仕方ないといった様子で私の前に先ほど読もうとしていたページを開けて置いてくださいました。
「それしかないんだ。お茶を零すのだけはやめてくれよ」
 そうお茶目に言うと先生は自分のカップに口をつけました。私が礼を言ってお茶を一口飲み、クッキーも一枚いただきました。ほろりと崩れる甘さに私は笑顔になり、美味しいですと先生に伝えました。そしてまた楽譜に向かうのを、先生はただ静かに見ていました。
 ページを追うごとに私の頭の中には、あの美しい旋律が流れていました。ところどころある、日本語の記述は曲の進行とは対照的に字が薄れていき、線はがたがたと頼りないものとなっていました。全てのページに目を通し終えると、最後に先生の字に下線が引かれているものがありました。
「チェンバロのための協奏曲」
 流れるような筆記体で綴られたその言葉を口に出すと、先生が後を続けました。
「曲名は、ユラティオ、と言うんだ」
「チェンバロ曲だったんですね。それにコンチェルトだなんて、素敵です!」
 私は新たな発見に胸を高まらせて先生を見上げました。しかし、そこにあったのはいつもの優しい微笑みではなく、今にもその瞳から涙を落としそうな、暗い表情だったのです。
「先生……?」
「ありがとう。私も室内楽団とチェンバロで、本当の演奏を聞いてみたいと常々思っているんだ。まあ、このご時世そんなコンサートは東京でだってできないけれどね」
 口元だけはいつものように微笑んでいますが、目はそうではありません。私はどうかしたのだろうかと、とても不安になりつい尋ねてしまいました。聞かないほうがよかったと、後になって思っても仕様のないことでした。
「先生、あの、どこか具合が悪いんですか。それとも私、何か失礼なことしてしまったでしょうか……」
「いや、そんなことはないよ。佳苗ちゃんは何もしていないし、どこも悪いところなんてない……ああ、でも、僕の調子は良くないのかもな……」
 先生は尻すぼみになりながら片手で目元を抑えて言いました。震えている唇から出てきた最後の言葉に、心配しないと言うのがおかしいと思いました。
「何か、あったんですか」
「すまない、君のお祝いをしたいと言うのに、これでは先生失格だな」
「そんな!」
 先生は、自分を抑えるかのように長く息を吐き出すと、テーブルに置いた手の指をピアノを弾くようにタタタと軽く叩きました。先生が目を覆った手を離すと、一筋、頬を小さな光が伝っていきました。
「明日は、私の恋人の命日なんだ」
 先生は机に置かれた楽譜に目を落とし、それから部屋の奥へと視線を移しました。そこには細かい彫りの装飾が施されているチェンバロが置かれていました。蓋は閉められていて、かなり古いものだとわかるくらいに、日焼けした木の深い色をしておりました。
「聞かせてください。それで先生が楽になるのなら」
 先生はじっとチェンバロを見つめたまま、淡々と話しました。暖炉からの明かりが先生の髪の毛を透かして、絵画に描かれる人のような横顔であったことを覚えています。
「こんな話を君にするのを許してほしい。私の恋人は十年前、結核にかかって死んだ。彼は私よりも歳上だったし、元々肺が弱い人だったから、お互い覚悟はしていたんだ。彼は私と同じ音楽をしている人でね、私なんかが彼のような素晴らしい演奏者と出会えるなんてと最初は思ったものだ……とても懐かしいよ」
「あのチェンバロは、その人のものなんですね」
「そう。あれは彼が大事にしていたもので、元気なうちは私がピアノでオケの部分を弾いて連弾していた。彼とはとてもうまが合ったんだ。意識しなくたって、私たちのリズムは完璧にあっていた。彼のためにたくさん曲を書いた。チェンバロだけじゃなく、もちろんピアノ曲も、数え切れないくらい。ヨーロッパへ二人で学びにだって行ったよ。もちろん何でもかんでも全部うまくいくなんてことはなかった。だけど、今でも鮮明に覚えている。窓から溢れてくる光が満ちる小さな教会で、彼が私の書いた曲を弾いてくれた時はね、本当に天使が降りてくるんじゃないかと思ったくらいだ」
 その楽譜、と先生は指をさして言いました。
「そこにいっぱいある日本語のメモはね、私たちの思い出の描写なんだ。彼が色々と面白がってね、入院中に書きつけていたみたいなんだ。ちょうど十年前の今日、家に帰ってきてその曲に題名をつけてくれたんだ。『誓い』という意味だと教えてくれた」
 私は胸を締め付けられる心地を感じながら、努めて穏やかな声で相槌を打とうとしました。
「素敵な方だったんですね」
「ああ。過去だけでなく、今でも、僕にとっては素晴らしい人なんだ。彼が愛してくれたという思い出は、僕が覚えているから、それで十分……」
 先生が愛おしそうに譜面に触れると、パタリ、とその白い指に小さな雫が落ちました。私はその瞬間が、とても恐ろしく、途方もない長さのように感じていたことを覚えています。何も混ざっていない、ただ透明な一粒は、その頃の私にとっては猛毒のようで、幼き初恋を散らしたのです。
「ああ、そうだ、今、この瞬間を愛してもらうだけが全てじゃない」
 そう言い切ると、先生は両頬をパチンと叩いて、いつものような笑顔を見せて私に笑いかけました。
「ありがとう、佳苗ちゃん。楽しい思い出を話したら随分と楽になった。すまないね。さあ、君にも一つ曲をあげよう。彼を追い抜くほどの良き演奏家になることを祈ってね」
 先生は立ち上がって、チェンバロが置かれたところに行き、側の机に積まれた紙の束から、青のリボンでまとめられたものを引っ張り出しました。
「せっかくだ、チェンバロの音も聞いていかないか」
 泣きながら家へ帰った私は、両親に呆れたような目を向けられて自室へ戻りました。頂いた楽譜を合格通知と並べておいても、白黒の反転した二段の鍵盤の上を滑る先生の細い指と、石畳を跳ねる雨粒のような音が忘れられませんでした。私の祝いと餞別のために、楽譜には私に宛てるという旨が、『パピヨン』という曲名の下に書かれています。
 翌日、小雨が降る夕方、私は学校の帰りに教会へ向かいました。先生のことを思うと、どうしてもお祈りだけでもしたかったのです。お祈りを終えて教会の外へ出ると、裏の墓地へ傘も差さずに歩いていく先生が見えました。私は自分の傘を差して先生の後を追いました。
「先生、風邪を召されますよ」
 驚いたように振り返った先生は、少し笑って首を振った。
「大丈夫、佳苗ちゃんが自分で差しておいで」
 先生はそれ以外何も言わずに墓地を進んでいきました。私だけが差しているのもと思い傘を閉じて、しばらくすると雨は止みました。湿った芝生の上をついていくと、大きな木が側に立つお墓の前で先生が立ち止まりました。
「咲都、きたよ」
 先生が呟いた、墓石に刻まれたその名前を見て、私は言葉を失いました。音楽の道を志すきっかけとなった、憧れのピアニストの名前がアルファベットで掘られていたのです。
 雨雲の隙間から顔をのぞかせた月が、やわらかな光で先生を照らしていました。それは、ちょうど今、夫が蓄音機の隣で微睡んでいる様子と同じでした。窓からの月光は夫の白が混じった亜麻色の髪に透けているのです。私がブランケットを膝にかけに行くと、彼は南雲先生とそっくりの微笑みを返します。
「いい音だね、佳苗。やっぱり僕は君が弾く曲が一等好きだよ。祖国にいる孫にも聴かせてやらんとなあ」
 そう言って、かつて指揮者と演奏者として一緒に舞台に立った時のように、大きく腕を広げました。

(2019)

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