Oh March, Come right upstairs with me ―
I have so much to tell ―― Emily Dickinson
雪解けがようやく始まろうとする三月一日。私は美しい町へと訪れる。
中古で買ったフィルムカメラを首にかけて、背負ったバッグパックには、二月に居た町で買った黒い表紙の手帳と、一つ六十円の鉛筆を様々な濃さで五本入れてある。大きな荷物はいつものホテルに置いてある。そうだ、二千円ほど、コートの内ポケットに入っていたっけ。
その町は、普段とても人が少なく、車もあまり通らない。電車は一時間に一本。その市で一番大きな駅から三つくらい先にある、小さな無人駅で降りる。
出迎えてくれるのは二体の大きなクルミ割り人形。「ようこそ」という文字のはげた看板を横に立っている一体は駄菓子屋の空袋を提げ、もう一体はおもちゃのティアラが頭に乗せられている。私はそのティアラの乗った人形に向かって、ニッと笑いかけ、カメラのファインダーを覗き込み、パシャリと一枚。それから、車のない大通りを、とりあえず左右確認してから渡る。
少し込み入ったところをゆき、針葉樹林の小道をゆったりと歩く。自転車が一、二度くらい通ると、私は木の側へ寄って止まる。恥ずかしがり屋の住民たちは、私の会釈と笑みは見えないフリをしているのだ。
また、そろそろと歩いていく。
しばらくすると、急な坂道があって、非常に短いのだが、これまたゆっくりと上る。先には、錆びた杭で建てられた「くるみまち文庫」と名のついた、住民たちの本置き場(捨てるのではなく交換が条件)がある。今年も中を覗いてみる。昨年に比べてつまらなそうな背表紙が増えた。めずらしいが洋書も一冊発見。だが、私の好まないタイプのもので、片眉を上げて、左へならえ。そのまま旧道をのろのろといくと、古い宿屋の跡があり、そこは今はレンタルスペースになっているのだが、夏はギャラリーなどに姿を変えているようだ。「四月から始めます」と丸っこい字で、手書きされた紙が、掲示板にテープで雑に貼られている。そのまま、あと十メートルくらいで目的地だ。
ホケキョ、ケキョ、とウグイスがヘタクソにどこかで鳴いている。
お目当の場所は、白ペンキで「Second-hand Books」と茶色く日焼けたベニヤ板に、やさしい字で塗られている。最後の「S」は私が初めて来た時に書き足したものだ。セメントブロックの段を三つ上がって、小さなスワッグが金色のベルと共にかけられた、くるみの木のドアを開ける。
「こんにちは、三月です」
私はそう言って、小さな青の玄関マットの上に立った。
しばらくの静寂。
二秒も待たないで、ぱたぱたというスリッパの音が二人分近付いて、満面の笑みの老夫婦登場。
「今年も三月がきたな! おかえり、くたびれただろう」
おじいさんがずり落ちた眼鏡を鼻に押し付けて、両腕をいっぱい広げた。それに応えてハグをすると、柔らかな桜の葉の香りを感じて、頬が緩む。
「桜餅食べてましたか」
「む! 君は本当に鼻がいいな」
「あら、私にもしてくれないかしら」
おじいさんの肩越しに見えたおばあさんが少し唇を尖らせてお茶目に言う。とても歓迎されていることを光栄に思いながら、私は少し屈んで、彼女にも優しくハグをした。おじいさんと一緒に桜餅を食べていたところだったのだろう、とふわりと漂う香りから思った。
「二人ともお変わりないようで、よかった」
「君は……少し痩せたね」
おじいさんは腕を組んで、好き嫌いする子供を叱るように私の顔を覗き込む。頬を掻いて苦笑いをした私は視線を横へやる。所狭しと並んだ古本の中に、マザーグースの文字を見つけて目が止まった。子供の頃よく母親に読み聞かせてもらった絵本と同じものだった。
「本はお茶と桜餅の後よ、三月さん」
目線の先に気づいたおばあさんが、可笑しげに私に向かって言うと、パタパタとスリッパを鳴らして店の奥へ戻っていく。おじいさんもウンウンと頷いて、私も一緒におばあさんの後を行く。
「ああ、そうだ。今回も色々と持ってきたんですよ、今はホテルのトランクの中ですけど」
私はバックパックを降ろし、荷物入れ用として椅子の下に置かれたカゴに入れた。この古書店はちょっとしたお茶菓子なんかも売っていて、こじんまりとしたテーブルで食べていくこともできるのだ。
「毎年ありがとう、三月さん。いつでも持ってきてくれ」
おじいさんは眼鏡の奥の瞳を、おもちゃを期待する子供のように輝かせた。
三月は私にとっては、休みの月だ。
この月だけにくるから「三月さん」と呼ばれている。
一年の中でこの月だけは、何にも仕事を受けないで、一番好きなこのちいさな町へ帰ってくるのだ。ノートパソコン一台あればできる仕事に就いているが、それでもやはり企業の集まる都市部に行かないわけにはいかず、休みの月以外は私の好みではない町にいることが大半。私の生まれ故郷は別の地域にあるが、あまり好きではない。だからだろうか、こうやって気の向くままにふらりふらりと、月ごとに各地を転々とする生活を送っているのかもしれない。
ここに滞在する間はとても暇だ。他人から見ればの話だが。
レジャー施設はスキー場以外、大方閉まっているし、ショッピングモールもあるけれど生憎私にはファッションブランドに何かこだわりがあるわけでもなし、あそこは三十分も居れば十分で、要はああいう騒がしい雰囲気のところの方がむしろ退屈なのだ。
それで代わりに何をするかといえば、カメラと筆記用具とを持って散歩をする。同じような風景に見えても、道端には色々と小さいながらもいろんな気づきを得ることができるのだ。先日のティアラを被ったクルミ割り人形のような。そういったものを見つけることが間違い探し、いや、宝探しのようで愉快だ。
午後から雨が降るらしいので、午前中にあの古書店に本を持って行くことにした。
折り畳みの傘を一応かばんの中に入れておいて、外国で手に入れた古本をビニール袋に入れてから、さらにマチ付きの大きめのトートバッグに入れる。ずしりと肩に重さが伝わってきた。自分でも驚いたのだが、今年持ってきた量がホテルに配送を頼んだ分も加わって思いのほか多く、三回目にしてようやく全部届け終わる。
昨日は一日中晴れだったので、タイミングを見誤ってしまったか、と思いながら曇り空の下、湿気の含む風を感じながら針葉樹林をのんびり歩いていく。
この日、店主のおじいさんは、私がくるのを楽しみに待っているのには理由があると教えてくれた。おばあさんが入れてくれた番茶をすすりながら、私はおじいさんとあれやこれやと新入りの古本たちについて話していた時のことだ。
「君がここへ来るとね、時間が進んでいるんだなあということをきちんと感じることができるんだ」
「それは一年が経ったということですか?」
「いや、そういうわけではなくてね」
私は広げていたルノワールの画集から顔を上げておじいさんを見つめた。彼は老眼鏡を外し、穏やかな表情を見せた。
「田舎だからそう感じるのか、じじいになったからそう感じるのかは分からんがね、この町の中はそれほど変化しないんだ。まあ、あの賑やかな夏休みは変化といえば変化だな。とはいっても毎年同じような感じなら、行事のようなもんで、賑やかなことに変わりはないだろう?」
おじいさんが一呼吸つくのに湯呑みに口を付ける。小物を整理しているおばあさんをちらりと見ると、「またいつものが始まったわ」とでもいうように、薄っすら笑っていた。
「そうやって、変わらないなあと思っていても、ふとね、静かに停止しているような日常をじいっと見つめて過ごしているとだね、周りのちいちゃな変化に気づくんだ。これはわかるかね」
「今の言葉で、何となく」
「うん。それで、君、それに気づいた後、何がわかると思う?」
突然に投げかけられた質問に目を丸くした。
何がわかるのか。
「例えば君が、この本を仕入れたパリのカフェのテラス席にいるとする。自分の目前を人が通り過ぎていく。その速さ、見た目、年齢、考え事の内容、全部が違っているっていうのはぼうっと見ていてもわかるだろう? でも君は座ってそこにいるんだ」
頭の中でパリの風景を思い浮かべるが、やっぱり何のことかわからず、苦笑いして首をひねる。
「もちろんこれはじじいのどうでもいいような独り言だから、君は違う考えがあって良いというのは、いつものことながら先に言っておくとして、そう、変わったものがわかったなら、現在と過去と未来の流れだ、と僕は思う」
パタパチ、パタ。
雨粒が窓ガラスを静かに叩きはじめた。
「僕らはずっとゆったりとした流れの中にいて、この町を通って行く人たちを見つめているのをゆったり楽しんでいるんだ。その瞬間のことももちろん考えているが、頭の別のところでは、ずいぶん昔のことも考える。教会の裏から聞こえた子供達笑い声とミンミンゼミの大合唱。今じゃあ、もうどっちもなかなか聞こえないもんだ。それから、ちょっとした未来のことも考えるね。おばあさんと晩に何を食べようかなあ、とかね」
おじいさんは画集に乗せていた私の手を見て、それから自分の手を見て、首をぽりぽりと掻いた。
「例えば僕は、君を見ているとね、学生時代を思い出すんだ。不思議と」
「私はおじいさんを見ていると、昔世話になった先生を思い出しますよ」
何だかわかりそうな気がしてきて、相槌にそう言うと、おじいさんは大げさに両手を挙げて「三月とはいい月だな」と感嘆の声を上げる。
「ああ、そういうことだ! つまり、時の延々とした流れの中に生きていて、ちょうどこの雨粒のような存在なんだ。時間という大きな地球の中で自由に動き回っていく水だ。いろんなものと混じりあって行くと、過去も未来も現在も全部ひっくるめて感じることができるものというわけだ。君のおかげでまた面白いことを見つけられた」
「三月さんがびっくりしてますよ」
高揚した風なおじいさんに冷たいお茶を出して、おばあさんは笑ってその隣に腰掛けた。
「あはは、大丈夫です。これは課題ですね。ちょっと考えて、また一年ぐるぐるしてみますよ」
「そう、それがいい。僕もね、今こういったはいいがね、十分な考えとは言い切れん。お互い宿題だな」
おじいさんはぐい、と冷茶を飲み干すと大きく息を吐き出した。私はその少し掠れたため息に親しみを感じながら、開きっぱなしの画集を閉じた。雨音が次第に大きくなっていた。
「一年元気にいてくださいよ」
「ですっておじいさん。晩酌は程々にしませんとねえ」
「いや、酒もなくては良い考えは出てこんよ」
「飲みすぎは禁物ってことです」
一口残っていたお茶で喉を潤して、私は軽くなった鞄に手をかけた。
「帰るかね」
「ええ」
「無理はしちゃダメよ」
「わかってます。また、来年の三月に」
「面白い話をまた持ってきてくれ」
あの古書店が来年も変わらずそこにあるのか、期待はしても確信はできない。
おじいさんが言うように、絶えず流れ続け、形を変えて、場所を変えて、変わらないものなどない。人と出会い経験したものや思いは、永遠に彼らの心の中に存在し続ける確かな過去で、未来をも形作っていくのだ。
そして私はまた、次の街へ――
(2019)