二月半ば、四年目に差し掛かろうとする大学キャンパスはもう見慣れたもので、何の不自由なく入り組んだ建物の間を歩く凌司の頬を夕暮れ時の冷たい風が静かに撫でていく。梅が咲き始めているし暖かくなるのももうすぐか、と所属する研究室から出てきて呑気にも考えたのだが、目の前の光景に、一気に冷え冷えとする現実へと彼の意識が引き戻された。
バチン。閑散としたキャンパスに強く響く乾いた音と女の嗚咽。
北国の凍てつく吹雪の方が幾分ましだ、という程に打ち付けられる手のひら。次に、鈍く殴られる音が二度ほどする。二十年近く前の生活が思い起こされて、叩かれている人はどれほど痛かろうと同情し、さてどんな奴だろうと見ると、殴っているのは女だ。そして殴られているのは、よく見知った女だ。
唖然として立ち尽くしていると、その女に殴られた女は凌司の方を見て、「あ」などと言うではないか。やめてくれ、と思いながら凌司は後ずさる。人間関係のいざこざに自分を巻き込むのは勘弁してくれと視線で訴えるも、殴っている方の女は凌司をキッと睨みつけて、再び目の前の女に向き合って握りしめた拳と声を震わせる。
「あの男と付き合ってるの? あたしのことなんかどうでもいいの? こんなにしほちゃんのこと好きなのに、どうしていっつもそうやって私のことテキトーにするの? あたしなんかした? してないよね?」
「あの人は何も関係ないし、茜ちゃんのこと適当になんか」
「絶対嘘! だってこの前も何もないって言ってたのに加藤くんと会ってた!」
「それは、まあ、そう。ごめん。……でも」
「あたしのこと騙したのね? もう知らない! 別れる! しほちゃんとはもう会わない! 大っ嫌い!」
喚くだけ喚いて、殴った方の女は紙袋を一つひったくり、泣きながら走り去った。絵に描いたような修羅場だが、相手の言い分も聞かずになかなかのものだな、と凌司は殴られた方の女に同情と共に歩み寄る。
「大丈夫か、美澄」
「あはは、みられた。恥ずかしー」
「……痛いだろ」
「ちょー痛いです。三発もらちゃった」
女に殴られていた女は、昨年知り合った後輩だった。見事なほどに真っ赤に腫れている彼女の頬。痛そうに摩っている鎖骨あたり。ぶたれたのはその辺りか、と凌司はため息を吐く。美澄の手には有名パティスリーやショコラティエの紙袋が複数ある。今日はバレンタインデーだ、と場違いにも思い出した凌司の口から出た言葉は、彼女が哀れに思えたのか、彼らしからぬものだった。
「話ぐらいなら聞くけど」
❁⃘
クリスマスを前に恋人が欲しいだなんだという高校時代の同級生から、「お前も来い」と強制的に合コンに参加させられた、十一月のこと。
「俺は行かない」
「だめ。店予約してるから、紺元が来ないと人数が足りなくなって困るんだよ。俺が奢るし、端に座って飯食ってるだけでいいからさ〜」
「人が多いところは」
「よーし、行くぞー! 彼女見つけるぞー!」
引きずられながら、大学から近場の居酒屋に連れていかれた。大抵の誘いは断っている凌司だが、両腕を男に掴まれて連行されると為す術はない。しかも片や喫煙者の同期である。煙草嫌いの凌司は居酒屋に着いた時には既に疲弊していた。
「美代ちゃんに女子側頼んでさ、いい感じの子達連れてくるって」
「まじ? タイプの子いるかなー、スタイル抜群の」
「今日も俺は絶対お持ち帰りするつもり」
「マジで狙うかー」
同期たちの会話に、下品だ、と凌司は頭を抱える。一番隅の席で、暗い、無愛想な雰囲気を出していることにした。眼鏡くらい持っていれば良かったなと思うが、そもそも来る気はなかったので用意がなくて当然である。ため息をついて携帯電話を開きニュースサイトを適当に眺めていた。トップにきている見出しは「X市にて発砲通知、鴉鵲会の抗争か」見覚えのある字面だな、とだけ思って、ポチポチと十字ボタンを押して別の見出しを読むでもなく眺めていく。
程なくして、女性陣も加わり合コンが始まった。ドリンクを注文してから自己紹介をし始めた。皆、名前と所属と諸々を話していく中、参加の意思がない凌司にまで振ってくる。
「えっとぉ、端っこの方はー?」
なにやら期待するような品定めするような女性達の目線に辟易としながら、ため息混じりに応えた。
「……紺元凌司です」
「こいつはただの数合わせなんで、気にしないでいいっすよ」
凌司を引き連れてきた同級生がおちゃらけて言う。なぜこいつは俺を連れてこようと思ったんだ、と呆れながら目線を下げる。
「あのー、私も一応数合わせなんですけど……」
凌司の向かいに座った子が、すこし控えめに手を挙げて、愛想笑いを浮かべながら言った。それに続けるように、その横に座っていた女性が大きく頷いた。この学生は同期なので顔見知りではある。
「しほこ、ウチの学部でサークルの後輩でさ、ごはん奢るからって連れてきたのよ〜。いま彼氏いるんだよね?」
「えっと、えへへ…」
「そっかー! でも、逆に人数ちょうど良くね?」
「確かに!」
賑やかに笑いながら他の学生たちで話は盛り上がっていく。アルコールが入りそれなりにいい感じに彼らは進行するだろう、と凌司は自分が注文した梅酒を飲んでため息をついた。ここの店は煙草の匂いはするのだが、酒も料理も割と美味しいので、それがまだ救いだ。一刻も早く帰りたい気持ちは変わらないが。
粛々と食事をしているが、どうにも目の前からの視線が気になる。凌司は箸を置いて、二杯目に頼んだ白ワインを一口飲んでから、向かいに座った人に話しかける。
「何か?」
「いや、凄く食べ方綺麗だなーって。すみません、見すぎました」
軽く頭を下げる相手の皿をちらとみる。取り皿の上は、料理の味が混ざらないようにきちんと分けてある様子で、渡し箸もしていない。
「別に構わないですけど……あなたも食べ方綺麗ですよ」
「えっ、そうですか? はじめて言われました」
「気にして見ている人が居ないのかもしれないですね」
凌司はまたワインを飲んだ。次は赤を頼むか、と思いながら肴をつまもうと箸を持ったところで、何の気なしに向かいの人を見る。
「あなたも国際学部なんでしたっけ?」
「はい。国際総科です。あ! 紺元さんも?」
声色を明るく尋ねる彼女に、凌司は頷きながらつくねを皿に取る。
「色々聞きに行っていいですか? そろそろテストが心配で」
確かに一年生だと試験に慣れなくて困ることもあるだろうが、わざわざ他人へ世話を焼くほど優しい人間ではないと自認する凌司は、隣で楽しそうに他の学生たちと盛り上がっている同級生を指差した。
「試験の過去問とか、俺の隣にいるやつも同じ学科なのでくれると思いますよ」
「紺元さんは持ってないんですか?」
「……俺も持ってますけど」
「なら、紺元さんに聞きに行きますよ。そうだ、私、みすみしほこって言います。さっき言ってなかったの思い出した」
「はあ……」
妙に懐かれていると思ったが、凌司も悪い気はしなかった。食の好みが合い、賑やかな会が苦手だというところで共感するなど、それなりに会話は続いた。
合コン後は当然ながら、特に何も無いまま足早に帰宅した凌司だったが、懐いた美澄という後輩とはしばしば大学で会話をする程度にはなった。もちろん先日の期末試験の前には過去問を渡している。
凌司が大学のカフェテリアの壁際の席に座り、購買で買ったパンを齧っていると、美澄がコーヒーチェーン店の紙コップを片手にやってくる。一緒にいる学生に「ちょっと先輩見つけたから先行ってて」といって彼女が一人で歩いて来るのを目の端にとらえ、凌司は何か話しかけられるだろうと身構えて、ペットボトルのお茶でパンを飲み込んだ。チープな味だ。
「りょーさん、この前の試験余裕でした!」
得意げな顔の美澄が凌司の目の前に立つ。以前「りょーさん」と変な呼び方をするのをやめてくれと言ったが、気に入ってるんだからいいじゃないかと聞かない美澄に押し通されている。凌司はそれ以上は面倒になり好きにさせているが、なぜそんなにも懐かれているのか彼自身不思議だった。
見上げると彼女は親指を上げて微笑む。
「過去問くれたおかげです〜。ありがとうございました!」
「うん」
わざわざ報告しなくてもいいものを、と思いつつ頷く凌司がまたお茶を飲むと、美澄が急に顔を覗き込んできた。
「てか、りょーさん顔色やばいですよ」
「……そうか」
「えぇ〜。そうか、って……ご飯食べれてます? 寝れてます?」
「まあ、そこそこ」
「ストレス?」
「確実に」
「めっちゃ心配なんですけど。ほんとに。なんかありました?」
「人間関係」
「あー……私でよければ話なら聞きますよ」
「お前、授業は?」
「次休講になったんで、問題ないです」
話すことは何も無いと思ったが、美澄が返事を聞かずに凌司の前に座るので、言いふらすなと前置きした上で、溜息をついて仕方なく口を開く。
「同期の男が教授のお気に入りの学生に手を出して修羅場。しかもその女子学生は……はあ、俺に告ってきた。もちろん断ったが」
噂に聞いてはいたが、学生に手を出す職員は稀にいることを現実のこととして見聞きすることは思わなかった。成人した大人なら各自好きにしろと思うが、それに巻き込まれてはたまったものではない。
凌司の所属する研究室はゼミ生であれば自由に出入りできるようになっており、指導教授の持っている資料を好きに使うことができるのだが、卒論テーマに関わる書籍を読みに何度か訪れていると、偶然例の女子学生と同じ時間帯になることが多かった。教授がいるときは、女子学生はそちらに行っていたので凌司は特に困ることはなかったが、問題は教授がいない時だった。
そもそも自分の要件に集中して、横であれこれと喋っている女子学生のことは適当にあしらっていたのだが、何を勘違いしたか、勝手に告白してきた女子学生のことを凌司がすでに付き合っていたらしい同期の男子学生から略奪したことになっていた。一応誤解は解けたものの、いまだに凌司はその女子学生に気があるということが、男子学生と教授の認識になっているようだ。
「……で、同期の人の攻撃がりょーさんに?」
一連の話を聞いた美澄の眉間に皺が寄り、凌司がそれに頭を縦に振ると一層深まった。
「そういうことになるな。ついでに教授からも地味な嫌がらせがある」
「嫌がらせって?」
「卒論のフィードバックをしないとか、そういう……。はあ、馬鹿馬鹿しい……」
「やばいですよそれ。そのゼミやめたらいいのに」
「それができたら苦労してない。卒論研究は進めてしまっているし、変えようにも研究室が見つからない」
また深く溜息をつく凌司に同情を寄せるように美澄が手を伸ばすと、テーブルに置いたままの凌司の左手に重ねて、彼女は微笑んだ。
「りょーさん、大変でしたね……愚痴なら私がいつでも聞きますから!」
軽く目を伏せた凌司は「そうか」と小さく呟いて頷いた。
❁⃘
「いてて」
「ちゃんと冷やしとけ。じゃないと長引く」
嫌な経験則から助言する。お酒飲まないとやってられない、という美澄と居酒屋に来た凌司は、店員に氷だけ入れたグラスを頼み、氷をおしぼりに包んで彼女に差し出す。頬の赤みは幾分かは引いたようだが、結構な勢いで殴られたらしい鎖骨はまだ痛むようだ。彼の目に見えてはいないが、きっとあざになっているだろう。
「はぁい。ていうか、なんで私殴られたんだろ……」
凌司から受け取ったおしぼりを鎖骨に当てて、不満そうな表情をする美澄は、店員が運んできたばかりの二杯目のレモンサワーを勢いよく煽る。素晴らしい飲みっぷりだが、介抱が必要なくらいに泥酔されては困るからきちんと水を飲ませておかなければ、と凌司は頭の隅で考えた。
「なんでって……聞こえた限りでは、お前が浮気した様に思えたけど」
「違う違う、誤解です。元々、あの子と付き合うなんて言ってないんですよ。『あそびだからね』ってちゃんとお互いに確認した上だったんです」
遊びで始めた関係のはずが、その片方が本気になってしまい破綻してしまうという、よく聞く話だ。凌司も自分が頼んでいだハイボールのグラスに手を伸ばす。氷がかなり解けていて、元々薄い居酒屋のハイボールがさらに薄まっていた。
「……それで、向こうの認識がずれてきたわけか」
「うん。何回も恋人にはならないよって言って続けてたし、それに、付き合ってる人なんかいない状態でどうやって浮気しろと。このチョコだって勝手にみんながくれただけだし……」
繰り返し言ったなら、それは向こうにもかなり非があるな、と思ったが何も言わずにハイボールを飲む。口をへの字にした美澄が取り皿に食べ物をよそいながら、チラリと凌司を見やる。
「私悪くないと思うんですけどね〜、りょーさんどう思います?」
「同情はする」
「どっちに?」
箸で摘んだフライドポテトから目線をすぐ前の美澄に移すと、視線が合うと思っていなかったらしく、美澄はわずかに目を見開く。
「美澄」
「えぇー、やさしい。うれしい〜」
いつもの冗談じみた言い方をしているが、凌司の耳には少し違って聞こえた。咀嚼しているフライドポテトの塩味が強く舌に感じられた。妙に気になるものを、薄いハイボールで流し込もうとグラスに手を伸ばすと、美澄が口を開く。
「惚れちゃいますよ〜。こんな理解してくれる人いないもん」
「懲りないな」
「そこは、じゃあ俺にしとくか? って言うとこですよ、センパイ」
「お前なぁ……」
「あは、悪ふざけしてすみません。でも」
ためて頬杖をつく美澄は顔を傾げる。凌司は彼女の片方のピアスが取れていることに気がついた。打たれた時に落ちてしまったのだろうか。
「私的には、りょーさんとは気が合うなぁって思うんですけど」
「……何が言いたいんだ」
「もうちょっと慰めて欲しいかな〜って。私、こんなだから後腐れないですよ」
「お前、酔ってるだろ」
溜息をつく凌司に、笑う美澄。凌司が差し出す水を受け取る彼女の目線は、彼をまっすぐ捉えている。
「一回きりでもいいから、お願い」
凌司は自分の手についた水滴を拭かずにちらりと見ると、やけに寂しげに響いた声に同情を誘われたか、今度は溜息をつかず彼女を見つめ返した。水面のように揺れる美澄の瞳の中に、凌司は自分の姿が見えた気がした。お願い、ともう一度呟いた彼女らしからぬ様子に答えるように、自分の頭がわずかに縦に動いたことを、凌司は他人事のように認めた。
❁⃘
「りょうじー、このワイン開けていー?」
「どの」
青いラベルのやつ、と答える声は部屋に備え付けのワインクーラーを覗き込んでいる。その後ろ姿に微笑む紺元凌司は、ソファの背に腕を置いて柔らかな声で答える。
「好きなだけ飲んだらいい、紫穂子の好きなものしか置いてない」
それを聞いた美澄紫穂子は振り返るとニヤリと笑ってボトルを持ち上げる。もう片方にはベロアの赤いリボンが巻かれた黒い箱。
「今日は甘やかしモード?」
「紫穂って呼べばいいか?」
「それはもっと後がいい」
紫穂子は凌司の隣に腰を下ろすと、開けて、とボトルと栓抜きを渡す。凌司はそれを何も言わず受け取って造作なく栓を抜くと、磨かれている二脚のグラスにダークレッドを注ぐ。片方を紫穂子の前に出すと同時に、彼女は黒い箱の中から一粒のショコラ・ボンボンを指につまんで凌司の口元に持っていき食べさせる。凌司の口の中にはカカオの香りが広がった。
「凌司は甘いしチョコも甘いし、胸焼けしちゃうかも」
「なら、やめておくか」
「やめない。……凌司との初めてのバレンタインを思い出しちゃうわね」
そう言って笑った紫穂子はグラスを傾けて一口だけワインを飲むと、驚いたように目を丸くして凌司をみる。口の中に残っていたかけらを飲み込んで、凌司もワイングラスを持ち上げる。
「……気に入った?」
「とっても」
その返事を聞いて凌司は満足げに頷いて、紫穂子の髪を撫でる。紫穂子が猫のように目を細めると、二人の唇は重なる。甘さと渋みが緩やかに彼らの間に溶ける。
「あの時は」
紫穂子が溢れるようにつぶやいて凌司の頬に指を沿わせる。
「こんな綺麗なリゾートホテルじゃなかったけど、凌司がいてくれて」
「うん」
凌司は紫穂子の目を見つめたまま微かに頷く。
「……若かったよね、私たち」
「そうだな」
「あの頃みたいな私じゃないけど、あなたがいてくれるから、十分かなって思うよ」
微笑んだ紫穂子の瞳には窓から見える青と紫が反射している。空は長い夜の入口を彼らに教えていた。
