◆ サイレンを鳴らして出ていく同僚の車を横目に見送り、安道聡美はジャケットの袖を少し捲って腕時計を確認した。六年前の事故で死んだ親友の形見が指すのは午後二時三十分。出勤後に調査のために署を出たのが朝の十時で、昼食もそこそこに働いていたが、彼女の想定より早く戻って来ることができ安堵した。
「安道、戻りました」
自身の所属する部署のドアを開けながら宣言すると、コンビニのコーヒーを退屈そうに啜っていた彼女の上司が顔を上げた。走り回っている部下に対する労いの言葉などは無く、投げかけられるのは次の仕事の話題である。
「検事さんが来てるぞ。安道待ちだ」
「え、早くないですか? 三時のはずでは」
持ち出していたファイルをデスクに置いて卓上カレンダーを確認するが、赤字で書かれた「MTG 十五時」の予定は変更なしで間違いないはずだ。
「話すことが多いから早めにきたんだと。時間まで待つって言ってたが、さっさと行ってこい。カラス連中の資料が必要ならそれも持って行け」
「わかりました」
安道は自分の捜査手帳を掴み、上司が指差した部署で共有されている捜査資料の棚から「鴉鵲会:過去事件捜査資料」とラベルが貼られたファイルをを引っ張り出して、さっき帰ってきたばかりの部屋を意気揚々と出た。背後で「安道、やる気すごいな」という同僚の声が聞こえた。
警視庁に異動になり二年程が経ち、安道が初めて指名された仕事の初日がこの日なのだ。男所帯の部署ということもあり、ほとんど消去法で選ばれた自分の任務の条件が酷いものであったとしても、少なからず鴉鵲会が関連する捜査の中心に関わられることを喜んでいた。六年前の件の事故は、日本一の勢力とも言われるあの反社会組織が起こしたものだと信じて疑わない彼女にとって、仇の情報を得るまたと無い機会なのだ。気合いを入れ直す意味で、彼女は下ろしていた髪を一つに固く結んだ。
応接室の扉を叩くと、くぐもった「どうぞー」の声が返ってくる。ドアを開けると真剣な表情でラップトップのキーボードを叩いている男がいた。おそらく年齢は三十代半ばで、安道より少なくとも五、六歳は上だろう。シルバーフレームのメガネと黒いジャケットは、至って真面目な検事らしい印象を持たせるが、それとは裏腹にシャツの首元は緩められて、ネクタイもしていない。彼は安道の方を一瞥すると、顎でしゃくって自分の前に座るように示す。安道はわずかに眉を顰めたが、明らかに自分の立場が下であることを自覚しているし、仕事を円滑に進めるためには黙っている方が吉だ、と笑顔を貼り付けた。
「お待たせしてすみません。この度の捜査に同行することになった安道聡美です」
会釈をしてから、テーブルを挟んで男の対面に腰を下ろした安道は、努めて明るい声を出す。それを聞いた男は頷くとラップトップを脇に寄せ、ジャケットの内ポケットから名刺を取り出してテーブルに置いた。
「特捜部の早見鏡次郎だ。よろしく」
「よろしくお願いします」
慌てて安道も自身の名刺を取り出そうとしたが、軽く笑った早見に静止される。
「別にいい。それよりさっさと本題に入ろう。俺も、お前も忙しいだろ」
頷いた安道が「鴉鵲会」と大きく表紙に書かれた資料をテーブルに置いたところで、早見はその上に重ねるように彼が持っきていたラップトップを置いた。再び眉根を寄せた安道だったが、当の早見は気がついていないようで、資料ファイルを開いた画面を安道に見せながら真面目な顔で話し始める。
「連絡が入ってると思うが、今回の合同捜査のターゲットは滝城克樹だ。流石に名前くらいは知ってるよな?」
「はい。現都議会議員で次の都知事に近い政治家の一人だと噂されている人ですよね。捜査に配属されるにあたって少し調べました」
「調べなくてもニュース見てたらわかるだろうけどな。今回の滝城に対する捜査全体を指揮するのは検察側だ。俺たちはその準備段階として、現地捜査を行う。その意味は理解していると思っていいな?」
安道は再び頷く。滝城が現与党所属の議員ということを抜きにしても、裏金疑惑や収賄疑惑だとか何だとか、話題に事欠かない人物であることは安道も知っていた。そういった事件を対応するのは検察庁、その中でも特捜部と呼ばれる部署である。その捜査に警察である安道も加わることになったのは、複数の暴力団が関連している疑いがあるからだった。
「で、俺たちが任されているのは、滝城主催の懇親会に参加して、政治家と各種組織との連携についての証拠を集めることだ。どれだけ小さな情報であっても構わない」
「確実にターゲットを仕留めるための準備段階ということですか?」
「そういうことだ。ただ、検事は俺一人、刑事もお前一人だ。これだけの数を二人でじっくり捜査することは不可能だろう」
早見は自分と安道を指差してから、ラップトップの画面を指差す。先だって検察側から送られてきた資料と同じようなものだが、今見せられているものには滝城親派と思われる名だたる政治家に加え、大手企業といくつかの暴力団の名前がリストアップされている。ざっと見るだけでも合わせて三十は超えているようだ。
「では、滝城のみに絞るんですか?」
「そんな簡単にやつから情報は仕入れられないだろ。二人がかりの意味もわからない」
首を傾げる安道に、早見がキーボードを叩いて別の資料を表示して見せた。また名簿のようなもので、個人名の横には所属組織などが書かれている。
「滝城と確実にやりとりのある人間だ。政治家だけじゃなく、犯罪組織に加担している人間もいる。俺たちが調べる相手はこいつらと滝城だ」
「拝見します」
早見からラップトップを受け取ってよく見れば、名前の横に書かれているものは所属組織だけではなく、「収賄罪」「未成年買春容疑」「麻薬取引容疑」等の犯罪に関する情報であった。リストにある名前は有名な政治家とは限らず、所属組織が不明の、いわゆる一般人と思われる人間も混じっている。その中に、見覚えのある名前もいくつか挙げられていることに安道は気がつき、画面を早見に向けてラップトップを返した。
「覚醒剤と殺人の田辺信二は風虎組で、殺傷事件を起こした藤野浩介は鴉鵲会のはずです。数年前、県警にいた時に関連事件を担当しました」
「トラとカラスか……」
「所属先が割れていない人間も、おそらくはその辺りの暴力団の構成員もしくは準構成員だと思います。内村英明や角正彦は逮捕には至っていませんが、この二人も鴉鵲会の構成員です。鴉鵲会の支部に出入りしているという証言があります」
「つーことは、やっぱりカラスが大穴か」
呟いた早見に対して、安道が部署から持ち出した資料を引っ張り出し、該当する事件のページを開いて見せた。資料と名簿を見比べると、彼は感心したように数度頷いた。
「へえ、やるね。犯罪組織に詳しい奴を選んでくれって注文しておいて良かった」
「暴力団は何度も相手にしてきたので、最大限尽力します」
安道はむず痒い気分になったが、これまでの経験が今度の潜入捜査に上手く役立てられそうだと思って、自分自身が誇らしくも感じられた。その一方で、未だ例の事件について核心をつく情報を得られていないことが彼女にはもどかしい現実だ。
「そりゃ頼もしい。だが、カラスには特別気をつけた方がいいぜ」
警察側の資料から目を上げた早見が、安道にファイルを押し返して笑った。
「どういう意味ですか」
「その辺に居るカラスって頭がいいだろ? それと同じで相手にすると一番ややこしい。特捜も奴らがらみの案件で散々手こずらされてきてるからな」
「頭に留めておきます」
安道の返事を聞いて何度か頷くと、早見は再び自身のラップトップのキーボードを叩き始める。何をそんなにやることがあるのだろうかと思ったが、向こうの仕事なのでいちいち聞くものでもないと、安道は別で気になっていることを尋ねることにした。
「先ほど見せていただいた名簿に載っている人が懇親会に来るのでしょうか?」
「いいや、こいつらが出席することはないが、同じ組織の人間は確実に居るとみていい」
「そちらが対象ということで良いですか?」
「ああ、どうせ男ばっかりだろうから、お前のとこの案でうまいことやれるんじゃないか?」
「私のところの、というと……」
「ハニートラップ、だっけ? お前も上司の扱いには苦労してんだな」
早見が苦笑と共に答えたところを見ると、時代錯誤・女性軽視も甚だしい方法を提案したのはどうやら安道の上司らしい。いつか上司をギャフンと言わせてやると思いながら、それでもやはり、鴉鵲会に接近する機会を得られたことの方が彼女には重要である。
「仕事なので、仕方がありませんよ」
「そうだよな。あ、俺の連れってことで懇親会に行くから、お前が警察だってわからないような、あとハニトラに良い感じの服を選んできた方がいいぜ」
「わかりました。質問があるんですが良いですか?」
早見は「どうぞ」というように安道に視線を投げてから、僅かに肩をすくめて椅子にもたれ掛かった。
「どうやって懇親会に出席するんですか? 早見さんは滝城から招待されているとか? それとも、会場の従業員に紛れ込むとか」
「俺が滝城から招待されるなんてありえない。従業員が出席してる奴らにあれこれ話聞きに行くのも、どう考えてもおかしいだろ。単純に別のツテがあるんだよ」
「ツテ、ですか?」
「当日わかる。大したことじゃない。質問はそれだけか? 潜入捜査についての計画を詰めるぞ。伝えないといけないことがまだまだあるからな」
早見の回答に対して釈然としない心持ちではあったが、安道は自分に任された仕事に向き直り、彼が提示する情報を自分の捜査手帳に書き留めていった。
◆ 警察官と検察官が膝を突き合わせていた同日同刻、鴉鵲会本部では幹部会が行われていた。本部長である紺元凌司は月例報告を終えたところであった。彼のボス、すなわち鴉鵲会会長の鳥龍仁がファイリングされた資料をゆっくりと閉じると、サングラス越しに一番近くに座っている二人の幹部に目線を遣った。大抵の場合、若頭と若頭補佐はどちらか一方が会議に出てくれば十分なのだが、この日は特段予定が無かったらしく、二人とも出席していた。
「お前らからは、何かあるか?」
若頭の東雲怜司は、会長からの問いかけに首を横に振る。紺元が報告をしている間も非常に退屈そうで、始終愛用の拳銃を磨いていた。その若頭の隣で、同様に紺元の話はそこそこに、スマートフォンで何かしている様子であった補佐の相神千弘は、手を止めてにこやかに会長へ向き直る。
「私から一つ報告したいことがあります」
紺元は向かいに座っている相神の一連の仕草に対し、入門してすぐの頃は人知れず嫌悪感を覚えていたが、慣れというのは恐ろしいもので、最近に至っては、喫煙者特有の臭い以外については特段の感情は持たなくなっている。仕事が円滑に進めば十分である。
会長の頷きに相神は軽く礼を言うとその場で話し始めた。会長のための書類は持ってきておらず、口頭で済ませるつもりのようだ。
「都議の滝城に関することですが、ウチ以外に風虎組も懇意にしているようです」
「滝城……」
名前を聞いて唸る会長を見るに、どの政治家のことか見当がつかないらしい。鴉鵲会との繋がりがある人間は到底片手に収まるものではないため、覚えていなくても当然だろう。紺元はさりげなくボスをフォローするつもりで、相神に尋ねるように口を開いた。
「次の都知事選に出馬するそうだが、滝城は風虎組とも資金連携をしているのか?」
紺元の質問に対して、舞台俳優よろしく大袈裟に肩をすくませて相神が答える。
「ウチほどは多く無いようですけど。最近、あちら側でよく食事をしているようで」
風虎組は鴉鵲会には劣るものの、名の知れた組織の一つである。彼らは運営資金の多くをお茶屋さん——いわゆる風俗商売での収益からみかじめ料として徴収している。そのような店に訪れる政治家の中には、「食事」以上の意味合いを持って利用する人間が少なからずいる。風虎組が古くから続けている形態に固執しているため、資金運用がうまくいかず、近年勢力が急速に衰退していることは、この業界ではよく知られた話だ。しかしながら、その名前の威力はいまだ健在である。
会長は二人のやりとりを聞いて滝城について思い出したようで、少しだけ考え込むと、腕を組んで幹部に意見を求める姿勢に入った。
「大した額じゃねぇならそのままにしておいて構わねぇが、相神はどう思うんだ?」
「風虎組まで相手にしているような政治家とは手を切ったほうがいいと思いますね。若はいかがです?」
「え? ……風虎は一回絞めたいけど、親父が決めたのでいいんじゃねえの?」
急に話を振られた若頭は、至極面倒だという表情を隠しもせずに答えた。いつも通りの様子であるため、気にも留めず会長は紺元の方へ顔を向ける。
「紺元はどうだ?」
「私は相神と同意見です。滝城の羽振は良いですが悪い噂ばかり耳に入りますし、放っておけばこちらにまで被害が及ぶかと。知事選のための支援者懇親会の招待が滝城の秘書から来ておりましたが、この際なのでご出席して判別するのはいかがでしょうか?」
「ああ……あれか。俺が行くほどのものじゃねぇ。幹部あたりが顔出したら満足するだろう」
会長のその一言に幹部たちは顔を見合わせた。無言ではあるが、わざわざ政治家のパーティーになど誰も出席したくないことは火を見るより明らかである。溜め息をつきたくなるのをなんとか堪えて、紺元は咳払いをしてから微笑んで会長に視線を移す。
「……では、私の方で幹部全体のスケジュールを確認し、空いていそうな者を出席させるというので構いませんか?」
「お前に任せる」
程なくして幹部会が終わり、自分のデスクに戻った紺元が全体スケジュールを確認した瞬間、彼は先程の自身の発言を悔いた。部屋の隅々に響いたのではと思われるほどの大きな溜め息をついたため、紺元の部下たちは自分が何かミスをしてしまったのかと慌て始める。同僚たちに目線を送って立ち上がったのは、紺元が一目置いている部下の一人、白川知哉だった。
「幹部会お疲れ様です。何かありました?」
「……お前らの中で政治家や金持ち連中の相手が得意な奴はいるか?」
突然の発言に小さなざわめきが起こる。白川は紺元が見ているディスプレイを覗き込むと、翌々週の幹部たちの予定が映し出されており、紺元以外は全員出張で地方に行っているか、現場視察など書かれていた。
「接待飲みですか?」
「いや、政治家先生の懇親会だ」
また週末が潰れる、という小さな嘆きが紺元の口から溢れ、部下たちは滅多にないことに再び慌てた。この上司はいつ休めるのだろうかと部下たちが心配するほど、鴉鵲会の本部長はこの数ヶ月働き詰めである。そんな彼らをよそに、白川は何かを思い出したように軽く手を叩いた。
「以前連絡が来ていた都議会議員の方ですね。確か、滝城克樹! 最近は虎の餌場によく行ってるみたいじゃないですか」
紺元はディスプレイから目を上げて白川を見た。大勢の人間が来る場所で上手く立ち回るためには、そこに集まる人間の情報を網羅している優秀な秘書が必要不可欠と言うもの。
「……もうお前でいいか」
「俺ですか? タダで美味しいご飯食べられますかね?」
むしろ白川ほどの適任もいないだろう、と明るい返答をする部下に感心した。紺元は滝城の秘書が送ってきたメールへ返信を打ち込みながら、白川の服装を確認する。スーツを着てはいるものの、シャツは何の柄なのか判断に困るほどの派手さで、そうなると当然ネクタイも締めていない。
「充分な仕事をしたら好きなだけ食べるといい。白シャツとタイは持ってるな?」
「もちろんですよ。普段していないだけです」
「スニーカーも履いてくるなよ」
「家出る時に忘れないようにしますね!」
些か心配になる返事だが白川がミスをすることは皆無に等しいため、紺元は「頼んだ」と念押しの一言だけに留めた。キーボードを打つ手を止めて椅子を引いた紺元は、白川を含む彼の直属の部下たちに新たな仕事を振り分けた。
「下の奴らを嗅ぎ回って、本部まで足を伸ばす犬がいそうだ。いつもより注意して上がってくる報告を見ておけ」
紺元と白川との会話に聞き耳を立てていた部下たちは、直ちに自分がすべき仕事へと戻っていく。
「それから、白川は滝城まわりの情報を集められるだけ集めてこい」
「承知しました」
◆ 都議会議員、滝城克樹主催の懇親会は都内の老舗高級ホテルで催された。安道と早見は別の場所で待ち合わせをした上で、タクシーで向かった。
この日の早見は以前とは見違えるほどちゃんとして見えた。ネクタイはもちろんしているし、それにスリーピースを着こなしており、しっかりとシャツのボタンも首元まで留まっている。安道は打ち合わせの際に言われた通り、「ハニートラップにふさわしい」と思われるドレスを選んだ。体に沿って緩やかな曲線を描くドレスは、深い海を思わせる上品なネイビーブルーで落ち着いた印象を持たせつつも、ふくらはぎのあたりまでスリットが入っている。デコルテから背中にかけては大胆にもレースが占めており、薄っすらと彼女の肌が見えるものだった。長い髪は余計な装飾なく結んでまとめており、耳元にはアメシストのイヤリングが控えめに揺れている。靴は甲の部分にビジューを施したポインテッドトゥのパンプスで、脚を一番綺麗に見せる高さのヒールは七センチ。
「いいコーディネートだな。そのドレス買った?」
「ありがとうございます。流石に借りましたよ……今日限りのために買うのも馬鹿げてますから」
「確かにな」
タクシー内でそんなやりとりをした安道と早見であったが、彼らが見ているスマートフォンには捜査のための資料が映し出されている。加えて、万が一のためにお互いの端末に連携しているGPS機能がついた指輪を身につけているが、外見から彼らを警察官と検察官のペアだと判別することは不可能に近い。
ホテルに到着した二人はボーイに案内されて、エレベーターで会場へ向かった。何かを懸念するかのように、懇親会が開かれる階とその上下も含めたフロアは全て貸し切られていた。エレベーターを降りると滝城の招待客と思われる人々が談笑しているところが目に入る。安道は彼らをよく観察しようと首を伸ばそうとしたところで、早見に軽く腕を引っ張られる。
「おい、今はうろちょろすんなよ」
「すみません」
早見は片手にダークブラウンの封蝋がされた白い封筒を持っていた。招待状だろうかと安藤が考えていると、彼らに近づく一人の男がいた。男は早見と同じくらいの年齢のようで、見るからに良い仕立てのスーツと革靴に身を包んでいる。にこやかに早見に手を伸ばすと、声を落として話しかけてきた。
「鏡次郎、来たんだな」
「圭のおかげでうまいことな」
「お役に立てて光栄だ」
握手を交わすと男は安道を見て、早見に向けていたものと同じ笑顔で手を差し伸ばす。
「官庁で働いている細木圭です。鏡次郎とは大学以来の友人なんですよ」
安道は細木の握手に応じるとちらりと早見をみる。白い封筒をひらひらと振って眉を上げるので、彼が言っていた「ツテ」はこの細木という男だとわかった。
「初めまして、早見さんのパートナーの聡美です」
「二人とも上手く行くといいね」
「応援しててくれよ」
側から聞くと恋人とその友人のなんでもないやりとりのようだが、その本意を知るのは会話の当事者たちだけである。潜入捜査のため、安道は早見の提示した「連れ」という設定になるべく忠実にいようと努めているが、彼女自身ぎこちなさは否めない感覚がしていた。
「それで……細木さんはどうしてこちらへ?」
できる限り声を落として安道が尋ねると、軽く肩をすくめた細木は同じく小声で返す。
「僕の上司が滝城さん親派の方でね。小山寛治ってわかる?」
滝城と所属政党を同じくし、尚且つ都議会議員である小山は比較的若手の政治家だ。滝城とは反対に、不祥事沙汰とは無縁で地味な議員というのが世論である。そのことを思い起こしながら安道が頷くと、細木は苦笑いを浮かべて頬を掻いた。
「彼が来たくないからって、僕が代わりに行かされたのさ」
「俺たちみんな、上司に良いように使われてるってわけだ」
普通の声量で答える早見に若干冷や冷やしつつ、安道は愛想笑いを浮かべる。他愛もない話を続けながら、彼らは招待状を携えて懇親会の会場の扉を開いた。
滝城の懇親会には資料にあった通り、かなりの人数が招待されていることがわかった。こういったパーティーで支援者を募ったり選挙活動資金を調達したりするらしいが、人数もさることながら、招待されている人たちには大物政治家に限らず、大御所の芸能人もいることがわかった。世代は安道より上ではあるが、それでもわかるような人々が招待されているということは、悪評を上回るほど滝城の手腕が良いか余程の力を持っていると考えられるだろう。
人数もあって立食パーティーの形態をとっているため、どの人も決まった席についているわけではなく、自ずと顔見知り同士で集まってテーブルを囲んでいるように見えた。早見と細木が話している影に隠れるようにして立っていた安道は、滝城の側近や彼が懇意にしていると疑っている暴力団の構成員はいないだろうかと慎重に周囲を見回していたが、会場の照明が落とされ、小さなステージにスポットライトが当たったために、観察を続けることができなかった。
壇上に上がったのは懇親会の主催者、滝城だ。スポットライトに煌々と照らされて反射しているシルバーヘアは見るからに偽物だし、ふくよかな体型も彼の懐が豊か以上のものであることをありありと見せつけてくる。ホテルのスタッフがマイクを渡すと、滝城は不必要に指でマイクを叩いて電源が入っているか確認をし、大仰な咳払いを一つしてようやく口を開いた。
「えぇー皆様、本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
ニュースで散々耳にした政治家の眠たくなるような講釈は聞かずに、適度に周りに合わせて拍手をしたり小さく笑い声を出したりしつつ、安道は観察を再開した。招待客らが自由に動くことができる時間がくる前に、暴力団の構成員、特に鴉鵲会に所属していると思しき人間を見つけたかった。こういった上品なパーティには下っ端の構成員は連れてこないはずだろうから、それなりに上層部の、すなわち警察が少なからず顔写真くらいは持っている人間を探すことにした。
安道たちが立っているテーブルには、細木も顔見知りという高級官僚がステージの方へ視線を向けている。周囲のテーブルには、早見の資料にあった区議会議員や隣県の県議会議員もいる。目を凝らして遠くのテーブルを見てみるが、大御所演歌歌手の派手な着物の帯留めの反射が見えるくらいで、顔はよくわからない。やはり明るくなってからじっくり始めた方がいいかと思って、早見が立っていた方に視線を戻すと、いつの間にか彼はどこかへ行ってしまったようだ。あれだけ安道にあちこち行くなキョロキョロするな、と忠告していた当の本人がこれだ。今は暗いしスマートフォンを出して位置情報を確認すると否が応でも目立ってしまう。こうなれば、安道も目標は鴉鵲会の構成員に絞って行動してやろうと決意する。ハニートラップなどやりたくもないが、それで得られる情報が他でもない親友の仇であれば、その苦痛は買ってでもやってやる、と。
無駄に長い滝城のスピーチの九割は聞いていなかった安道だが、早見が彼のタイピンに仕込んだ小型の録音機が、証拠となり得るデータを保存してくれているはずだ。会場全体が再び明るくなった時に、隣を見るとやはり早見はおらず細木だけがいて、彼も顔見知りの官僚と談笑していた。招待客らはそれぞれに別のテーブルへと移動したり、並べられた豪華な食事を楽しんでいる様子だっだ。降壇した滝城は何をしているだろうかと、ステージ付近に目を向けると、おそらく政界の人間だろうという何人かに囲まれている。ターゲットに直接近づくのは悪手だと早見から釘を刺されていることもあるし、政治家よりも暴力団員を見つけ出す方が安道にとっては重要であったため、最初についたテーブルから離れて静かに捜査を続けることにした。
安道より背が高く、ハイブランドのドレスを身に纏ったモデルのような女性とすれ違ったり、秘書らしき人と難しい顔をして話していた区議会議員が横を早足に通り抜けたりと、上流の人間たちは目につけど暴力団の構成員と思しき人物はなかなか見つからない。探し出してやろうと思っているから見つけることが難しいのか、それとも着飾っている者ばかりで分かり難くなっているのかもしれないが、慣れない空気感にも焦りが増す。相変わらず早見は好き勝手に動いているようで、二回ほどGPSを確認しただけでも会場を出ていないのは分かったから、一人行動をしている検事に呼び出されるまで、安道は彼のことを放っておくことにした。
「お飲み物はいかがでしょうか」
一人で壁際に近いところで立っている安道に、グラスと数種類のミニボトルを器用にトレイに載せたウェイターが話しかけた。
「ありがとう。ノンアルコールのものはありますか?」
「はい。こちらにご用意があるのは現在スパークリングワインだけですが、いかがなさいますか」
緑色のボトルを示したウェイターにそれをグラスへ注いでもらって、安道は再び壁の花を決め込むこととなる。控えめに弾ける微炭酸を口に含んで安道が会場を少し見回すと、彼女からそれほど遠くない位置のテーブルで、滝城が秘書の脇宮を間に挟み、背の高いグレージュヘアの男性と話をしている様子だった。脇宮が背の高い男について滝城に説明しているようで、男は微笑むと手を伸ばして滝城に握手を求めた。男の斜め後ろにはその秘書と思しき人間が立っていたが、安道はその顔に見覚えがあってハンドバッグからスマートフォンを取り出し、周囲に見られないようにさりげなく、連絡が来ていないか確認するかのような姿勢をとる。早見に共有した警察の捜査資料のファイルを開いてスクロールをすると、同じような顔がすぐに見つかる。鴉鵲会本部所属の構成員だった。そのすぐ後に、髪色は違っているが背の高い男の横顔が写っている写真も見つかった。捜査資料によれば、すぐそこに立っている鴉鵲会の構成員で幹部ではないようだが、本部所属であり政治家のパーティーに出席できるところをみると、それなりに中枢に近いところにいると考えられるだろう。背の高い方は紺元、その後ろに立っている男は白川だ。どちらも逮捕歴はないものの、安道が追っている例の事件について、何かしらの情報を握っている可能性はあるだろう。
すぐにスマートフォンをしまって、滝城たちに視線を戻した。よく見ていると脇宮の表情はあまり変わらないものの、滝城の方は顎をあげて紺元を低い位置から見下すように笑っていた。紺元と白川は同じように、人当たりの良さそうな笑顔で何かを伝えているが、安道には当然何も聞こえてこず、代わりに食器とカトラリーが触れ合う音や、招待客らの楽しげな笑い声だけが耳に入ってくる。もう少し近づいて聞き耳を立てたいと思った安道が、グラスに残ったパールの液体を飲み干し、移動しようとしたところで肩を叩かれる。
「先ほどから一人でそこにいるけど、具合が悪いのかな?」
振り返るとパンプスを履いた安道と同じくらいか、数センチ低いくらいの背丈の男がいた。こだわりがありそうな口髭にパン屑か何かがついている。
「ええ、大丈夫です……」
愛想笑いを貼り付け軽く会釈をして、安道が滝城たちの方向へと顔を向けると、鴉鵲会の構成員たちはすでにどこかへ行ってしまったようで、滝城はまた別の人と話をしていた。見失ってしまったか、と思いすぐに後を追いたかったが、口髭の男が食い下がってくる。
「一人なら、私と一緒に飲まない? このホテルの最上階にはバーがあるんだよ」
ひとまずこの場から離れるのが先決だ。少しだけ周囲を見るふりをして退路を把握し、安道は男に笑顔を向けると、努めて残念そうな声色を出した。
「お誘いは本当にありがたいんですが、連れを見つけたので失礼いたしますね」
男の横を通って出入り口付近のテーブルを目指し、振り向かずに足早に去る。途中で空になったグラスを適当なテーブルに置いてこっそりと背後を振り返ると、口髭の男は安道を見失ったようで別の女性たちに話しかけていた。また壁際で立って観察しているかと思い、談笑したり食事をしたりしている人たちの間を縫って歩いていく。同年代に比べると捜査が多い部署に配属されるくらいには体力はある方だが、タクシーを降りてからというものずっと立っているし、ヒールが高めのパンプスを履くのも久しぶりであったため、安道は想定していたより早くに足が疲れていた。足元がもつれてしまうのも仕方がないと言えるのだが、もうこれ以上歩けないというほどではない。
しかし、ちょうど演歌歌手の隣を安道が通り過ぎようとしたと同時に、笑って大袈裟に手を叩く年配の議員の肘が彼女の背中を押してしまい、彼女はつんのめってしまった。踏ん張ろうとするも、慣れないパンプスでうまくバランスが取れずにそのまま前に倒れてしまう。転ぶと思って手を前につこうとするが、両手が床に触れることはなく、代わりに彼女を抱える腕の感覚があった。
「……っと、大丈夫ですか?」
頭上からする男性の声に安道は慌てて姿勢を戻す。片腕で安道を支えていた男性のもう片方の手にはグラスがあったが、中に入ったものがこぼれた様子はない。随分と体幹のしっかりとした人なのだなと思いつつ、お礼を言おうと見上げると切れ長の目が安道を見つめていた。グレージュのオールバッグ、背の高い男、紺元だ。
「すみません、ありがとうございます」
安道は感情が自分の顔に出ていないことを祈りながら軽く頭を下げて、思いがけず鴉鵲会の構成員と接点を作ることができた自分の幸運を喜んだ。紺元は磨き上げられた革靴を履いて、品の良いスーツを着ている。グラスを通りかかったウェイターのトレイに載せた彼は、安道の足元をちらりと見てから彼女の顔を覗き込むように微笑んだ。
「いいえ。お怪我はありませんか?」
片方のパンプスについていたビジューが取れてしまっているようだが、ヒールも折れていないし足を挫いたようでもなく、普通に立って歩けそうだ。しかし、ここで紺元に去られてしまってはせっかくのチャンスが水の泡になってしまう。どうにかして引き止めなければならないと安道は必死に頭を回す。紺元のスーツの袖にファンデーションがついているのが目に入った。安道を支えた時に、擦れてしまったのだろう。
「私は大丈夫ですけど、お袖を汚してしまいました」
急いでハンドバッグからハンカチを取り出して、袖を拭こうとする安道の手を軽く触れて止めた。僅かに目を細めた紺元は、捜査資料にある横顔の写真より随分優しげに見える。加えて、暴力団の構成員や安道が散々相手にしてきた犯罪者たちには到底見られることのない、ある種の上品さがあった。言うなれば、早見や細木が話していた高級官僚たちの持つ、聡明な雰囲気すら感じられる。
「これくらい構いませんよ。あなたの可愛らしいハンカチの方が汚れてしまいます。……急いで歩いていたようですが、誰かお探しでしたら、お手伝いしましょうか?」
「いえ……どちらかというと、あなたみたいな人を探していました」
我ながら歯が浮くようなセリフだ。自分にもこういう甘ったるい猫撫で声を出すことができたのかと、どこか他人事のように思いながら、安道は紺元を見上げる。安道の言動に彼は目を丸くして、少し眉を下げて笑った。
「あはは、それは……困ったな」
「あっ……ごめんなさい。素敵な方だし、きっと誰かといらっしゃってますよね」
「謝らないでください。確かに私は人と来ていますが、秘書を連れているだけですよ。彼にしてもらう事は終えたので、好きにさせているんですが……ああ、今あそこのテーブルにいます」
紺元が指差した方へ視線を向けると、白川が誰かと話しながら食事をとっているのが見えた。白川の話し相手は人影になっていてよく見えなかったが、今は紺元の方に集中すべきだ。安道は幸運を逃すまいとして、非常に不本意ではあるが自分に任された時代錯誤な役割を思い出し、最大限可愛らしく見えるように科を作って、紺元を上目遣いに見つめた。
「じゃあ、少しだけお話ししたいんですけど……」
安道から目を逸らすことなく見つめ返してくる紺元の瞳は深い色で、その真意は読めないが優しげな笑顔を浮かべており、安道の根気に観念したのか肩をすくめた。
「私なんかがお嬢さんの相手になるのであれば」
そう言って左手を安道の前に出した。エスコートするという意味だと理解し、安道は自分の右手を重ねた。
場所を出入り口のすぐ近く、壁沿いのテーブルに移した安道と紺元は同じ白ワインを入れたグラスを手にしていた。安道は仕事上アルコールはやめておいた方がいいだろうと思いながら、一口だけ飲むふりをしてグラスを胸元で持っていることにした。
「お名前を伺ってもよろしいですか? 私は聡美と言います。聡いに美しいで、聡美」
「凌司です。凌ぐ司、と書きます」
当然ながら捜査資料を見ているから紺元の名前は知っているが、安道は初めて聞いたようなふりをする。万一、自分が警察とばれてはいけないと思って名前を伝えると、同じように紺元も自身のファーストネームだけ安道に教えた。
「凌司さんは何をされてる方なんですか? 秘書さんがいるくらいですし……滝城先生みたいなお偉い方?」
「いやいや、滝城さんと私は雲泥の差ですよ。聡美さんの方が私よりいい職についているんではないですか? そんな素敵なドレスがお似合いになるのですからね」
実際、自分は警察なので暴力団より色々な意味で良い職だ、と心の中で頷く安道は、紺元の問いかけに首を横に振って答える。
「私なんかただの平社員ですよ。今日だって、上司が招待されていたのに用事があるから、私が代わりに出席させられたんですもの」
「それは災難でしたね」
「私の話より、凌司さんのことが知りたいです」
紺元は微笑むとグラスを持ち上げて、ゆっくりとワインを口に含む。彼の丁寧な言葉遣いと立居振る舞いだけを考えると、鴉鵲会の構成員であるということが安道にはどうしても信じられなくなってくる。本部への立ち入りも警察は情報として持っているが、彼女の目の前に立っている男は本当に悪人なのだろうか、という疑念が浮かび上がってくる。
「随分と私に興味がおありなんですね」
「……たくさん聞いてくる女って嫌ですか?」
不満げな表情を作って首を傾げた安道に、紺元はゆったりと首を横に振る。安道に目線を合わせるように、少しだけ腰を曲げて彼が笑みを深めた瞬間に、微かに雨に濡れた木と苦味のある柑橘のような香りが安道の鼻腔を掠めた。紺元がつけている香水だろうか。
「とんでもない。聡美さんのような可愛らしい方に興味を持たれるなんて光栄です」
「ご冗談がお上手なの」
安道は紺元から目を逸らして自分の手元のグラスを見た。彼女は自分の鼓動の音が大きくなったような気がしていたが、きっと急に近づいたことで驚いたからに違いない。本当のことですよ、と軽く笑って言う紺元は姿勢を戻し、グラスをテーブルに置く。彼は少し壁にもたれたが、それだけで様になっているように安道の目には映った。身に纏うものや整った横顔を見ると、モデルだとか俳優だと言われても、それが嘘だとわかっていても信じてしまいそうになる。安道はまたワインを飲むふりをした。
「私の仕事ですが、会社勤めというのがわかりやすいでしょうか。経理部長のような事務のような……まあ、とにかく色々とさせられていますよ。あなたと同じように上司の言うことを聞いて、生活のためにせっせと働いているだけの平凡な男だ」
どのみち嘘をついているのは明白だが、より有益な情報を仕入れたいと欲が出てきた安道は、危険な道であることは理解した上で、自らもう一歩、紺元に近寄った。
「じゃあ、平凡な人同士、もっとたくさんお話をしたくないですか」
「聡美さんが満足するような話題か……何がいいでしょう?」
安道の肩が腕に触れても驚いた様子もなく、紺元は笑顔を向けてくる。自分の上司が決めた作戦については不満しかなかったが、鴉鵲会の構成員に対して効果があるのであれば、やはり買ってよかった苦労かもしれない。
「二人きりで、内緒の話、とか?」
上目遣いにねだる安道を真っ直ぐ見つめ返している、紺元は困った表情をすることはなく、静かに笑って頷いた。
「木は森に隠せ、と言いますが、素敵な女性のお願いを聞かない方が失礼ですね。上階のバーに行きましょうか」
誰かに声をかけることもなく肩を並べて会場を出た二人は、エレベーターでホテルの最上階へと向かう。紺元は先を歩くこともせずに、パンプスを履いている安道の僅かに疲労が見えてきた歩幅に合わせていた。いかにも紳士然とした対応をされると調子が狂う安道だったが、紺元には自分の正体がばれていないのだと信じることにした。
高級ホテル内の施設ともあり、安道が普通に過ごしていて入る機会はとてもありそうにない雰囲気のバーだった。懇親会の会場よりも暗い照明のバーにはカウンターの奥でグラスを拭いているバーテンダーを除いて、二、三組居るだけで、どの客も声を落として会話をしていた。彼らが話している内容は、店内で流れているスロージャズによってかき消されてしまい安道には聞き取れなかった。これなら、かなり踏み込んだ話をしたとしても問題なさそうだ。
他の客がカウンター席を使っていたため、夜景が見える窓際のテーブルの柔らかなレザー調の椅子に安道たちは腰を下ろす。安道の右側に座り、バーテンダーからメニューを受け取る紺元を横目に見た。ビル群の光が僅かに照らす横顔は、数分前に明るい会場で見ていたものと少し違う印象を抱かせた。
「ご自分で選びますよね」
メニューを安道に手渡す紺元は、何を飲むかすでに決めたようで、バーテンダーに告げていた。安道はよく聞き取れなかったが、クロンとかなんだとかのハイボールと言っていた。受け取ったメニューをざっと見るが、どのような味のものかも安道には見当がつかなかった。
「何がいいのかあまりわからなくて……凌司さんのおすすめを飲んでみたいです」
紺元は嫌な顔ひとつせずに、柔和な微笑みのまま頷く。
「ビールは飲めますか?」
「ええ、好きです」
「ではシャンディ・ガフはどうでしょう? ジンジャーエールと合わせたもので度数も高くありませんし、とても飲みやすいですよ」
「それにしてみます」
安道がそう言うと、紺元がメニューを返してバーテンダーはカウンターへと戻っていく。勢いでバーに来て二人きりになったものの、安道はほとんど無計画であったし、話の切り出し方に迷っていた。どうやって鴉鵲会のことを聞き出そうか逡巡するも、どれも不自然になってしまう気がしていた。
「私の顔に何かついていますか?」
「えっ……」
柔らかに耳に響いてくる声に安道は今ある現実に意識が引き戻される。頬杖をついて彼女を見る紺元はおかしそうに破顔した。今までの優しい微笑みよりも自然に見えるその笑顔は、安道が抱いている紺元の印象をまた変えた。
「さっきから私の顔をよく見ているような気がしたんですが、違いましたか?」
「ごめんなさい、嫌でしたよね……?」
「全く」
間も無く運ばれてきたグラスは、どちらもぱちぱちと小さな泡が現れては消えている。安道がグラスを手にすると紺元も軽く持ち上げて、二人は静かに乾杯した。
「飲めそうですか?」
「ええ、美味しいです」
「よかった」
満足げな紺元は安道の方へと体を傾けて、ほとんど耳打ちをするような体勢になり声を低める。これまで以上に接近したことに、安道は自分の体の右側をうまく使えないような気がしてしまう。
「お嬢さんは、どんな内緒話がしたいんですか?」
頬を柔らかな羽根でくすぐるような、滑らかで、少し低い声。つい飲んでしまったアルコールのせいで手が熱い気がするのかと固まっている安道を見て、紺元がくすりと笑うとその息が僅かに彼女の耳に触れる。
「私で遊んでます?」
ようやく絞り出した声で安道が言うと、紺元は椅子の背に体を預けて「そうかもしれないですね」と笑い、ハイボールを口に運ぶ。
「では私から話をしましょう」
まさかとは思ったが紺元はかなり乗り気のようだ。安道が目を瞬かせると、紺元はグラスを置いて人差し指を口元に持っていく。
「どうか、聡美さんと私の間の秘密にしておいてくださいね」
「ええ。もちろん」
安道の返事を聞いた紺元は、少し眉根を下げると頬杖をついて窓の外に視線を向けた。どこまで本当のことを話してくれるのかはわからないが、紺元はかなり安道に心を開きかけていると、彼女には確信に似たものを感じていた。
「私は鴉鵲会、と呼ばれる犯罪組織に身を置いているんです」
初対面の間柄での内緒話にしては重大すぎる告白に安道が絶句していると、紺元が悲しげな笑みを浮かべ、しかしそれでいて怒りのような強い感情を滲ませたような声で続ける。
「彼らに両親を殺されたので、復讐のために」
事実にしては出来すぎているし、嘘にしても紺元の表情や声色はとても疑えるようなものでもない。安道は慎重に言葉を選ぼうとしたが、それをやめて、核心をつくだろう質問をすることにした。自分の声が震えていることを悟られないように、内緒話をする声量で尋ねる。
「……もしかして、六年前の八月にS区で起きた事故は、凌司さんのご両親に関係がありますか?」
目を見開いた紺元はゆっくりと首を縦に動かした。
「ええ、忘れようにも忘れられません。でも、どうしてそれが?」
「私の親友も、その日同じ場所で亡くなったんです」
六年前のあの日、八月なのにその日はとても涼しい夜で、安道の親友が遠くに引っ越してしまう前に、レストランで奮発したディナーを食べに行ったのだ。安道が家まで一緒に歩くと言ったのを断り、親友は安道を駅まで送ってくれたのだ。「来週、空港まで見送りに行くね」と約束をして別れて、安道が電車をホームで待つ間に、親友は死んでしまった。大通りで爆発があり、少なくない数の人が巻き込まれて大怪我を負ったり、ひどい場合は亡くなったりした。ニュースでは水道管の古くなった部分が破裂し、その時ちょうど通った車が引っくり返りエンジンが発火し、後続車両が玉突き事故を起こしていった結果、ガソリンに引火し大爆発、という嘘みたいなことが本当に起きてしまったのだ。
「あの事故は決して偶然なんかじゃなくて、暴力団なんかが故意に起こした事件だと言う人たちがいましたよね。親友を亡くした私もその一人です」
安道は拳を握りしめる。自分の大事な親友の仇だと信じている暴力団にも、同じような思いの人間が存在していたのかと、複雑な感情が彼女の胸中を駆け巡っている。
「聡美さんと私は、同じ別れを味わったんですね」
紺元は口元から溜め息と一緒に溢れるように呟くと、安道の右手に彼の左手をそっと重ねた。温かく優しい手のひらは安道の視線を持ち上げ、二人の視線がかちりと合った。鷹のように鋭くも強い紺元の瞳が水面に揺れる星あかりのような安道の両目を捉える。
「……凌司さん」
あなたはそんなところにいないで、別の場所から復讐もできたでしょう。
安道が言葉を続けようとしたところ、近くで誰かの電話が鳴り、交わった視線が解かれる。安道が自分の端末を確認するが早見からの「お前どこ行ったんだ」と一言メッセージが入っているだけだ。ハンドバッグにそれを戻すと、隣で紺元が電話に出ていた。他の客の邪魔にならないように小声で短く「ああ、もう戻る」と返答してすぐに切った。
「大丈夫でした?」
「すみません。さっきの秘書が私を探しているみたいです。もう少し聡美さんと居られればよかったのですが……。お詫びになるかわかりませんが、ここは私に出させてくださいね」
気の毒そうに言いながら、紺元は視線でバーテンダーを呼びつけてカードを渡していた。軽く頭を下げて安道が礼を言うと、紺元はまた優しい微笑みを取り戻して彼女を見る。
「私のわがままに付き合ってもらいましたし、お気になさらないでください。会場に戻りましょうか」
「ならせめて、そこまでエスコートさせていただけますか?」
立ち上がった紺元が安道に手を差し出した。
バーを後にして、静かな廊下を黙って歩いていく間も、紺元の左手は安道の右手に触れて支えている。安道の鼓動はあの時からずっと早く打ちつけていた。緊張か、それとも高揚感か、あるいは。
エレベーターに乗り込んでから思い出したように、そういえば、と紺元が口を開いた。
「聡美さんの内緒話は聞けていませんでしたね」
「えっ……」
予想していなかった言葉に安道は拍子抜けしたような声が出る。至って真剣そうな目で、紺元は彼女の顔を覗き込んだ。
「私の話ばかりでつまらなかったでしょう。まだ二人きりですし、一つだけ教えていただけませんか」
「秘密をですか?」
口角を上げて頷いた紺元はエレベーターのボタンを押して扉を閉めた。僅かに揺れて下階へと向かい始めた箱に、二人以外の人間が入ることはない。
「すごく小さな秘密で構いませんよ。聡美さんの連絡先でもいいですし、何か秘密にしている気持ちでもいいですね。例えば、そうだな……」
エレベーター特有の浮遊感が安道の胸元に現れて、緩やかに消えていくだけの時間が過ぎた後、彼女の耳元に紺元の唇が触れそうなほど近づいた。
「俺のこと、好き?」
微かな笑い声が安道の頭部を撫で、彼女が思わず小さく息を呑んだその時、二人は目的の階に到着してしまった。うんともすんとも言えない安道の手を引いて紺元はエレベーターを降りた。
安道と紺元が懇親会の入り口付近に戻ってきたところで、安道は銀縁メガネの男の姿を数時間ぶりに目にした。ふわふわと現実感のないところにあった安道の思考は、冷水を浴びたかのようにはっきりしてくるし、早見が何やら満足そうに見えるので腹が立ってきた。
「おい、そろそろいくぞ」
早見が少し声を張って安道を呼ぶと、彼女の右手は自由になっていることに気がついて慌てた。
「凌司さんごめんなさい、私も同僚が……って、あれ?」
辺りを見回すが、先ほどまで自分の隣に立っていたはずの紺元の姿はすでに人混みに紛れてしまった。
「お前がターゲットほったらかして私情でうろちょろしている間に、俺は良い感じの証拠を掴んだからな」
うろちょろしていたのはそっちだろう、という文句は飲み込んで「もうちょっとで、連絡先聞けそうだったのに」と安道はわざとらしく溜め息をついた。
「もう帰るから、指輪返せよ」
安道のぼやきなど一切気にしない様子の早見をほとんど八つ当たりで睨みつけて、安道はGPSを仕込んだ指輪を通していたネックレスを外して、気怠げに広げられた早見の手に落とした。傷がついていないか確認した後、早見は安道を見て小さな子供に説教するかのように彼女の肩を叩いた。
「さっきのはレア物のカラスだ。命があることに感謝した方がいいぜ」
そういってから、唖然とした安道を鼻で笑った早見。どういうことですか、と安道が追求するより先に早見は踵を返した。
「タクシー待たせてるからさっさと行くぞ」
安道は置き去りにされるまいと、足早に立ち去る検事の後を追いかけた。
◆ 都内某所。休日出勤をしている数人が書類を相手に唸っている事務所の、片隅に備え付けられたテレビ画面では、ニュースキャスターが真面目な顔で原稿を読んでいる。
「滝城克樹都議会議員が汚職および公職選挙法違反で本日送検されました。検察庁の調査によると、政治資金の私的利用を含め……」
「あ、やっぱり捕まったんですねぇ」
報告書から顔を上げた白川がテレビを見て呟いた。デスクトップで部下から送られてきたメールを確認していた紺元は、ディスプレイから目を離さずに頷く。
「手を切ったのはボスの英断ということだ」
「でも本部長があのボケ狸の視察に行かなきゃ、会長もこの判断をしなかったかもしれないですし、本部長のお手柄と言っても過言じゃないですよ」
懇親会から事務所に戻ってきて以来、紺元に対する滝城の態度の悪さを白川が散々同僚たちに話していたからか、紺元の部下たちは白川に賛成だと示すように何度も頷いた。そんな部下たちの様子を横目に、紺元は黙々と仕事を続けている。
「そんなことより子犬の件はどうした。渡守と矢形に任せたはずだが、まだ報告が来ていない」
「すいません。矢形がなんか張り切って報告するっつうんで、俺忘れてました。今朝がた終わらせてきました」
「上手くいったのなら何でも良い。お前も教育で手一杯なのはわかるが、次は忘れるなよ」
「はい!」
紺元が部下からの報告を聞きながら、送られてきたばかりの別の資料をタブレットに表示させて、こめかみを抑える。白川は集中力が切れてしまったのか、手を止めて紺元に再び話しかけた。
「子犬といえば、本部長の名前教えちゃってよかったんですか? キャンキャン吠えて走り回るのが実は可愛く見えちゃったとか……」
「馬鹿げたことを言う暇があれば手を動かせ。……幹部の名前くらい、向こうもとっくに知ってるだろう。別に問題はない」
「それもそうですね。それに、本部長の好みは超絶美人さんですもんね〜」
紺元の鋭い一瞥をもらい、白川は肩をすくめるとお喋りをやめて自身の仕事に戻った。溜め息をついて表示したままのタブレットを見る紺元は、また一段と大きい溜め息をついて部下たちの背筋を凍らせた。
「おい、今月の決算書を書いたのは誰だ? 全部一桁多い」
「すいません! それ僕っす! 今すぐ修正して送ります!」
慌ただしさが戻ってきた鴉鵲会の事務所の片隅では、誰も見ていないテレビの中でキャスターが話し続けている。
「次のニュースです。本日未明、S区のビルで女性一名が死亡する火災がありました。現在、警察は女性の身元特定のため調査を進めています」
♕
